タイトルのPhoto panoramique、そのまま訳せばパノラマ写真であるが、広く視野を広げて写真を撮りたいという願望である。
写真には、空間的な切り取り(あるいはパースペクティブ)と時間的な切り取りの2つの要素があって、手軽で簡単な手法であるにも拘らず、この2つを共に満足させることが難しい。
アンリ・カルティエ=ブレッソンの有名な「決定的瞬間」の原題は “Image à la sauvette” であり、辞書などを引いてみると「隠れるように大慌てで去って行くイメージ」だそうである。逃げ去り行く映像とでも訳したらよいだろうか。時間的に空間を切り取ることの難しさを表現しているのかもしれない。
とまれ、そのような大袈裟なことを考えながら写真を撮る技術もセンスも持ち合わせていない。せめて、日々感じとった風景を少しでもイメージに近付けて表現したいものである。
Author: tanu
A Book:ドナルド・キーン自伝
たとえば子供の頃に出会うエジソンの伝記や大人になって読むだろうカエサルの「ガリア戦記」は、偉人伝であったり個人の記録であったりする違いはあるものの、「歴史」の一部を成す遠い話としてそこにある。エジソンの伝記とガリア戦記の時代には、2000年という時の隔たりがあっても、身近とは言い難い第三者的な距離感という点で現代人には等しく歴史なのである。
もちろん、エジソンの伝記それ自体が歴史というわけではない。むしろ、親が幼い子供に与える夢のようなものでもあろう。また、カエサルがガリア戦記を書いた時、それがそのまま歴史であったというわけでもない。今読むから歴史なのであって、書かれた時は、報告書のようなものであったかもしれない。それが自伝的記録でも日記でもなく三人称で書いてあるのは、筆写しかない時代とはいえ、ただ、読まれた時の効果を狙ったということなのかもしれないし、その時代の書き方なのかも知れない。私には、残念ながらその領域の知識がないので何とも分からない。マルクス・アウレリウスの自省録に主語が欠けているような、その時代の形式なのだろうか。
ともかく、今、それは歴史である。歴史であるから、多くの読者がそれを読む。そして、現代において我々がそれを読む時、読者は、映画でも見るような第三者視点の渇いた生々しさで歴史を目撃することになる。
一方、現代において今書かれた自伝は、歴史ではない。評価が定まっていないなどと評されることもあるが、要は、個人的な記録である。それは個人的な体験であり、第三者的な視点が入り込むことはない。それにもかかわらず、時折、歴史書でも読むように時のうねりを感じる自伝が稀にある。ドナルド・キーン自伝は、そのような稀な自伝である。
言うまでもなく、ドナルド・キーン(Donald Lawrence Keene)は、もはやキーン氏と敬称をつける必要性がないほどに広く知られた存在である。日本を代表する文学者のひとりであり、これまで積み重ねた様々な人との出会いと体験とが歴史の一部であると言っても誇張ではないだろう。それでもなお、自伝すなわち歴史ではない。恐らくは、日本との関わりそのものの中に通奏低音のような一貫した流れがあるからだろう。それは、乗り物のようなものでもあり、時に激しく揺れ、時にしばらく動きのないように思われる瞬間があり、それでも動き続けているようなものとでも言うべきか。
もしかすると、他人の手紙でも読んでいるような気になりながら、ドナルド・キーンの目で同じく追体験をしているからなのかも知れない。随所に出てくる文筆家との出会いがそれを強めているということもあろう。川端康成、三島由紀夫、安部公房と日本文壇を彩る名前が身近な存在として次々と出てくるのは、分かっていても驚きを禁じ得ない。だが、お叱りを覚悟で言えば、その主役は、キーンが読んだ名もない兵士の手紙であり、日々出会う人々なのだろう。
キーンは殊更に自らの幸運を強調するが、本書を読む限り、それは偶然の作用はあっても幸運などではなく、行動力と人柄から得たものである。名もない兵士の手紙を読むことになるのは予期しない偶然あっても、それをどう読んだかは偶然ではない。出会う人は選択出来ないかもしれないが、そこで得たものは偶然ではない。ただ、そうして出会ったものとの作用に時代の大きなうねりが重なりあって、キーンが幸運と言う一貫した流れがあるのだろう。
原題に自伝という文字はない。あるのはクロニクル(年代記)という幾分客観的な単語である。キーンは、今では古風なと形容することも可能な日本的謙遜(あるいは謙譲の美徳)を日本で生まれ育った人よりも身につけており、まさにそうした文脈でとらえたほうがよいのかもしれない。改題したのが本人か出版社か分からないが、キーンに興味がある読者はもちろん、キーンの目を通して昭和を感じるにも良い。
そして何よりも、一度読み始めれば先が知りたくなる作品である。
最近読んだ本
ドナルド・キーン自伝 (中公文庫)
ドナルド・キーン 著
Bonne journée (15)
今週は激しい雨とすっきりしない晴れ間に何とも憂鬱な日々となったが、週末もまたしても暴風とは!仕事に追われて、わずかな自分の時間をゆっくり過ごすしかないのでは、気分まで雨降りのようになってしまいかねない。そんな時は、これ幸いと読書に勤(いそ)しむのが正解である。
先週読み終えた本のメモ書きをまとめる事もしたいが、あまり義務感のようになるといい加減になりがちだから、書評は来週以降に回すことにした。まずは、読書で頭に栄養補給である。
なんだか文章まですっきりしないので、最初の写真は、早朝の日差しと決めた。せっかくこのblogを訪ねて読んでくれている人がいるのに、すっきりしないだけでは申し訳ない。 Continue reading “Bonne journée (15)”
huile d’olive オリーブ・オイル
フランス料理と言うとワインやフォアグラなどが真っ先に思い浮かぶところだろう。あるいはブイヤベースのような名物料理かもしれないし、オマール海老やトリュフといった海や山の食材かもしれない。個人的には、チーズやオリーブオイルもイメージが強い。だが、実際のところ、日本でも地域によって味が違うように、フランスでくくるのは少々乱暴である。どもそもドイツワイン好きがいたり、チーズはスイスだとかオランダだとかと言って譲らない人がいるように、ヨーロッパは広い地域に同じ素材が緩やかに広がっていて、それぞれに特徴がある。
遠く日本にいてフランスを思うと、ヨーロッパの西の方と十把一絡げにしてしまうのは致し方ないところだろう。フランス人が日本を見て中国の右のあたりとイメージするのと同じである。それを聞いて腹を立てるひともいるだろうが、フランス人も同じ気持ちに違いない。あるブルターニュの人が、日本人から
「ああ、ワインが美味しいところですよね。」
と言われてがっかりしたと聞いたことがあるが、気持ちがわからないでもない。確かにブルターニュとブルゴーニュの場所を地図で示せと言われても平均的な日本人には難しい。それでも、川崎に住む人が
「ああ、バイクを作ってる街ですね。」
と言われたり、鎌倉に住む人が
「行ったことがあります。鹿のたくさんいる公園があるところですよね。」
と言われたりすれば、がっかりするに違いない。 Continue reading “huile d’olive オリーブ・オイル”
Bonne journée (14)
東京で桜が満開といつもの年より早めに聞くと、今のうちに春らしい写真でもアップしておかないと出遅れたような気がしてしまうのは、あまりにblogに囚われた感覚か。ネットワークが動機であっても、それでも今年も桜の季節は巡ってきた。川沿いの桜並木は色とりどりのレジャーシートがパッチワークとなり、近くを通る人が花見の相談をしているのが聞こえてくると、淡いブルーとピンクの世界と賑やかな世界の境界線が見えるようである。
一方、桜でなくても春らしい花はそこかしこで自己主張を始めている。喧騒から離れ、静かに風に揺れる様子を見れば、どこかゆったりとした気分になる。
こころなしか南の国のおおらかさを感じる木蓮の紫もあれば、広がり始めた緑の隙間の影でひっそりと輝く青もある。雪柳の白は、色の少ない冬から華やかな春への橋渡しの様でもある。
だが、色使いの地味な姿に春らしさを感じるものである。土筆が気がつかない間に出ているのを発見してふと頰が緩むこともある。
今回の写真は、すべて横浜の住宅街でiPhoneを使って撮影している。このiPhoneのカメラがなかなか難しい。土筆の写真もピンボケというか、ピンが奥になってしまった。ちゃんとスクリーンをタップしてるのだが、思う場所にピントが合ってくれない。
そこでふと思う。また、テクノロジーを気にしてると。
今日も良い一日を。


