The iron structure tells her story.
鉄の造形が時を語る。
My 2nd contribution to WPC:Structure.
capturing in prose
ヴァンクーヴァー美術館の照明の落とされた隅の部屋で見た Janet Cardiff & George Bures Miller the Killing Machine はボタンを押すのにひどく勇気のいる作品だった。その互いの姿もはっきりとはしない他人同士がたまたま同じ場所と時間を共有しながら、いつか不安までも共有する共犯者であるかのように静かに息を殺す深淵へと落ちていく時間は、早くそれを終えて抜け出したくなる程に永遠とも思われた。光と音が交錯する器械はコンテンポラリーアートの典型的な手法のひとつではあろうが、そこにそれがあるという存在感ゆえに逃れられない現実となってアートという特別な今を超える。
ヨコハマトリエンナーレの会場のひとつである赤レンガ倉庫で案外空いている午前中のゆっくりとしたひと時を過ごしながら、久しぶりにその不思議な現実感を味わった。かつて山下埠頭で開催された時(2005年)のダイナミックとも形容できそうな巨大な仕掛けと較べればずっと洗練されてはいるが、あの時もどきどきするような現実感を感じたように、今回もどこか頭の隅で警告が鳴るような感覚を覚えた。The Killing Machineにも共通するそれが何かはわからない。ただひとつ、そこにある現実感だけは共通して感じている。
ヨコハマトリエンナーレでは、必ず自分がアートの中に紛れ込む。コンテンポラリーアートには映像のみの作品やオブジェを単に楽しむものも多いが、これだけの規模にもなればインスタレーションの現場に居合わせることもアートの中に入り込める作品も多い。かつて原寸大サッカーゲームで遊んだように、今回も作品の一部になって楽しめるものも少なからずある。
だからコンテンポラリーアートはやめられないのだ。

under the eaves
smelling summer grasses
way back in rain
軒借りて
夏草に酔う
雨の帰路
In buzzing of cicadas
Stretching and standing on tiptoe
A cast-off shell
背のびして
ためらい伸ばす
手に空蝉
