
新聞を開けば年に数回は国語力の低下だとか活字離れといったニュースにあたる。先日も自治体の2割に本屋さんがひとつもないという記事があって、前にも読んだような気がするなと「google」した。案の定、2015年の似たような記事がすぐに見つかって、妙な安心感のようなものを感じた。2年経ってもほとんど変わらない内容なら状況が加速はしていないということである。もちろん一方でそれを調べるのにgoogleしたというその習慣は、新聞が報道する状況が加速している可能性も示唆しているということでもあろう。
個人的には、町の書店が減少するのは当然という感覚を持っている。誤解して欲しくないが、本屋という空間が大好きで、なくなったら大変だとも思っている。先日も時々立ち寄っていた近所の書店が閉店となって困ったと食事時の話題にしたし、学生の頃は古書店をハシゴしてみたり信じられないくらい小さな学生街の本屋で数時間を過ごしたりもした。そうやって生活の中にあったはずの街の書店は、しかし輪郭が曖昧になりつつある。旬の野菜と夜食のスイーツを買うためにある食料品店と区別がつきにくい不思議な場所となってしまったのだ。それはそれでもちろん需要もあるだろう。出たばかりの山積みになったツヤツヤとした直方体を早く仕事を切り上げてでも買いたいと急ぎ立ち寄ることもあれば、なんとなく夜の時間をやり過ごすためにぼんやりと雑誌の書架を眺めることもある。ただ、それは毎日の生活そのものではない。新刊と雑誌と参考書だけの書店に毎日立ち寄る理由はなかなか見つからない。であれば、書店が減るのが道理というものだ。
北米でもヨーロッパでも本屋さんが流行っているという話はあまり聞かないから、時代の流れではあろう。店頭にないからと注文すれば待たされるし、時間つぶしならネットかゲームの方がお手軽。数が少ないから偶然の出会いは滅多に訪れない。オンライン書店が街の本屋さんを駆逐したというより、そんな時代という方が正しいのかもしれない。まるで、生息域が狭まった希少動物のようである。森に逃げ込むにも、森は限られている。
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そうやって考えながら撮った写真を眺めていると、ふと気付くことがある。違っているようでいつも同じ矩形を切り取っていると。違うものにレンズを向けて違う光の中でシャターを押し、数年前と寸分違わぬ写真が残る。良く見れば違っている部分もないではないが、薔薇か葡萄か程度の違いでしかない。そこでようやく思い出すのは、撮りたいものを撮りなさいという誰が言ったか分からないひとことだ。けだし名言。なるほど時々iPhoneのほうがいい写真が撮れるのは、そういうことだ。撮りたいときにいつもの一眼レフがないから仕方なかったiPhoneが、予想外の写真を残す。

