Cross Cultural, Photo

(Floral) Friday Fragments #269


 春の雨に舞い散る真紅の花弁に思わず足を止めたとき、不思議と自分はもう若くないことを実感したことは、素直に告白しなければならない。
 とっくに頭の中で理性が分かっていたことだろうと煮え切らない自分を責めるのだが、どこか遠い高みから客観的に自分を見る目と、その視線から逃れようとしている自分とがいて、幾つになっても若いふりをしたくなるということは止められないのだ。

 若い頃はそんな年寄りを見てみっともないと思ったりもしたが、あるときふと、自分もそのみっともない側になったのだと気づいたのだった。それは自然な感情によるものなのだろう。どこかで年をとりたくないと言う気持ちがあって、それ自体は、年齢を重ねることだって悪くないと言う気持ちと相反するものでもない。むしろ、同時に発生する感情でもあるのだ。
 だって、若い頃には年をとった自分なんて想像できないのだから、その異なる二つの気持ちを感じることなんてできるはずもないではないか。ようやく、それを理解できるようになったというだけのこと。

 落ちてなお、濡れたアスファルトの上で輝く花弁と、それをどこからか見ている花頭と、やがて朽ちて茶色になりつつある花弁と、我関せずの新緑と。一体どれが本当の姿なのか。そんなことを考えた刹那だった。

Photo

Mostly Monochrome Monday #449


The remains of a land snail lies lost between the lost memories of the sea, the memories of distant stars, the memories of a hot ancient time, and the lost colors of the earth.

失われた海の記憶と、遠い向こうの星の記憶と、暑かった太古の記憶と、失われた大地の色との間に落ち込んだ陸貝の亡骸。

A Part of Mostly Monochrome Monday

Cross Cultural, Photo

(Floral) Friday Fragments #268


 椿は、死者の花木である。一部の地域では椿を葬送に用いる習慣があるそうだが、古椿にはいくつもの死者の言い伝えもある。どうしてこうも死と結びつけられるのか。

 若い頃を振り返れば、椿の花を美しいと感じたこともなく、ただ雨にぬれて汚らしくうなだれ、やがて地面に落ちて朽ちていくイメージばかりがあった。正直に言えば、サザンカと椿の区別もなかった若い頃に、そこまで思い描けるものがあったかどうか怪しい。それでも、時を過ごして記憶が積み重なった今、あの朽ちて茶色になった花を美しいと感じられるようになったのは、ある程度年齢が上がって少しだけ死が近くに感じられる年齢になってからという気はしている。

 資生堂のイメージが椿なのは、幅広い年齢層に訴えるためなのか、それともかつては広く美しいイメージがあったのか、興味があって資生堂のサイトにあたってみたら、「水を張ったガラスの器の中に椿の花弁と葉を浮かべ、ただようその様」とある。なるほど、資生堂らしい美しいイメージである。

 病院のお見舞いに椿を持って行ってはいけないのは、花の終わりに首がぽたりと落ちるからといった説明は、後からつけられた説明であって、よくある不思議マナーと同じだというのは説得力がある。花椿がぽたりと落ちて水に浮く様は、伝統的な日本の美でもある。決して不吉なイメージはない。

 ただ、作りが大きく見方によっては派手で鮮烈な椿の赤が、地に落ちて真っ赤に大地を染めるその風景は、確かにどこか強烈なイメージを残す。そこには、今時のカワイイ風景とは一線を画すものがある。だからこそ、旅人に息を吹きかけて蜂へと姿を変えさせ、花に吸い寄せられると蜂と共に大地に落ちる古椿の話(この話は言い伝えかどうか怪しい)があったりするのかもしれない。