Bonne journée, Cross Cultural, Photo

Loire


A few years ago, I was in the courtyard of a famous castle in the Loire Valley in France. It was just after the COVID-19 pandemic had ended. There were still a lot of cases, and travel was not the time to go, but the Loire Valley was close to my home, so it was a good time to start returning to normal life.

I imagine it’s now very crowded with tourists from all over the world. I lost two family members of my friends during the COVID-19 pandemic. While I’m grateful to finally be back in the world, I don’t want to forget that there are still people I know who feel unsafe. 

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(Floral) Friday Fragments #235


 偶然の一致のことを英語でcoincidence(コインシデンス)と言う。
”What a coincidence!”
は、
「なんという偶然!」
フラ語だとcoïncidence(コアンシダンス)。
« par une heureuse coïncidence »
と言えば、
「幸運な巡り合わせにより」
といった意味になる。要は、たまたま偶然に一致した(符合した)事実のことであって、有名なものに、ノルマンディー上陸作戦の暗号が解答になったクロスワードというのがある。

 そのような大袈裟な(大ごとな)事ではなくても、日常の中にはたくさんの偶然の一致というのがある。
 その昔、ロサンジェルス郊外の大きなホテルに泊まり、巨大なホールラウンジの隅で軽い食事をしていた時のことである。ダウンライトが輝き、賑やかな会話があちこちから聞こえてくる。まだ明るい時間帯だというのにカクテルを傾けるグループもあれば、書類を睨みつけながらビールを飲むサラリーマンもいた。自分は、コーヒーを飲みながらスナックをつまみ、同僚と世間話をしていたのだった。

 そんな中、ウェイターがその巨大なラウンジの中をトレーを片手に走り回っていた。支払いは部屋につけてあるので、特段ウェイターに頼むこともない。ところがである。ウェイターのひとりが大急ぎでまっすぐ自分に向かってくる。なんだろうと思ったら「お電話です」と言う。ありがとうとお礼を言ってウェイターから電話を受け取ると、それはロスに住んでいる知人からの電話だった。会話は簡単に終わり、すぐにウェイターに電話を返したのだが、どうも腑に落ちない。その知人は、どうして私がそのラウンジにいると分かったのか。確かにロスに滞在することは伝えていたが、私がいつどこにいるかなど分かるはずもなかった。しかも、あのウェイターは、どうして私がわかったのか。知人が風貌を伝えたとしても見つかるわけがない。たとえ東洋人の顔立ちだと伝えたところで、ロスには無数の東洋人がいる。

 頭を捻っていると、後ろを通り過ぎた集団に同僚が突然声をかけた。
「おいおい。こんなところで何しているの?」
そう言って、その集団と親しげに話している。聞けば、偶然同じホテルに滞在していた知人だそうだ。偶然だと同僚は言うが、だんだん奇妙な気分になってきた。確かにロスには仕事で滞在していたのであって、似たような仕事をしている知り合いがたまたま同じホテルに泊まることだってありそうではある。でも、その前の電話は偶然などあり得ない。

 結局それ以上は何も起きなかったし、なぜ電話がかかってきたのかもわからないままとなった。

 それから5年ほどして、自分はフランスの地方のホテルに滞在していた。ロスの時とは違う内容だったが、やはり仕事でそこに来ていたのだった。時間は夜の10時頃だった。
 ホテルのレセプションで話をしていると、奥のエレベーターから出てきたのは、かつて仕事を一緒にしたことがある知人だった。何もこんなに広い世界なのに、フランスのこんな小さな地方ホテルで出会うなんて、あり得ないだろ。そんな会話をしたと記憶している。

 偶然なんてそんなものなのだろう。

 そう言えば、英語と津軽弁だったかは似ているといったような話もあった気がするが、これも偶然とはいえ面白い。
“Nous avons tant mangé.”(ヌザヴォン・タン・マンジェ)
意味は、「私たちは、たんと食べた」である。英語で言えば ‘so much’ を意味する ‘tant’ は、とてもたくさん=「たんと」である。まあ、正確に言えば、tantの最後のtは、通常は発音しないから、「タン」ではある。

 そんなわけで、冒頭の写真はフランスの古城の庭である。どこか空間が歪んで見えるが、何か操作したわけでもAIで生成した画像でもない。

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(Floral) Friday Fragments #234


 カメラってこんなに高かったかな?なんて最初に思ったのはほんの数年前だった。それがいつの間にか、カメラは高額商品だからなかなか買えないよねと、当たり前のように受け入れている。

 かつて関連業界の仕事をしていたから、スマートフォンのようなものを除く昔からあるカメラというものが、実はドル建てで価格が決まる、案外小さな市場の商品だということくらいは理解している。つまり、日本向けの商品ではなく全世界向けの商品であって、小さな市場を日本メーカー同士で喰いあっている世界である。

 そうした意味では、カメラが高額商品になったのではなく、日本の購買力が低下して日本人にとって高額になったのだと言える。実際のところ、世界の経済成長率は3%程度で推移してきたから、10年もすれば価格は4割近く上昇になる。10年前のカメラと現在の似たようなクラスのカメラを見れば、ドル建ての値段は確かにそうなっているし、為替レートを考えれば、今の高額なカメラは確かにリーズナブルな価格なのだ。これが、生活する上で必要なものなら多少は問題にもなったのだろうが、カメラは一部の人の商売道具ではあっても、ほとんどの人には必要のない贅沢品だから、案外誰も気にしていない。気にしているのは、カメラ好きだけだ。

 高額商品の典型である自動車を見れば、やはりかなり値上がりしているし、それに伴って売れ筋商品はどんどん小型化している。無理に買わない人も出てきたし、市場も縮小しているだろうことは想像できる。でも、文句を言いながらも、なんだかんだ自動車は買われている。ないと困る場合もあるからだ。必要ないのに少し大きな車を買っていた層が、よりコンパクトな車を求めているのだろう。

 そんなことをつらつらと考えていたら、ふと疑問が湧いてきた。カメラが買えた時代は、カメラで何をしていたのだろうと。

 その昔は、子供の成長記録は大きな理由のひとつだった。運動会に行けばカメラがずらりと並んだ時代もあったらしい。とった写真は印刷してアルバムにした。その後、SNSになったと言われるが、SNSで子供の成長記録をしているわけでもない。使われ方が違う。それなら子供の成長記録はどうなったのだろう。スマホで撮って、ちょっと誰かと共有したら、あとはストレージの肥やしになっているだけなのかも知れない。

 子供の成長記録なんて、カメラメーカーが作り出したもので、最初からそんなニーズはなかったのじゃないかとさえ思う。懐に少し余裕があって、良いカメラで良い写真を撮りたいから、ちょっと高いカメラを買うといった程度だったのではないかと。

 今は、カメラを使う仕事も様変わりしたそうだ。街の写真屋さんは徐々に減り、建設現場の記録もスマホで足りる。

 じゃあ、カメラって何?(あっ、花は関係ありません)

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(Floral) Friday Fragments #233


 Duolingoという言語教育アプリケーションがヒットしている。2024年国内で最もダウンロードされた教育アプリだそうだ。
 御多分に洩れず、自分ももう6年半も続けているのだが、このアプリが効果的なものかどうかは正直よくわからない。言語学習には王道なんてないと実感しているし、やり方がその人に合っているか否かというのは、言語が身についたかどうかではなく、続けられるかどうかだとも感じているの。だからその点ではDuolingoはその点では合っていたのだろう。
 正直に言えば、このDuolingoで言語が身についたという感覚はあまりない。向いている人も多いのだろうが、自分には他の言語に触れ続けるためのツールでしかなかった。日常会話にも、試験対策にも、学んだことが使えたなという実感はほとんどない。ただ、あまり学習として効果的ではなかったとしても、続けられるという点では少なくとも自分に向いていたということは言えそうだ。続けることは、案外重要である。もちろん言語にも依存すると思われるので書いておくが、少なくとも学んでいたのは英語ではない。言語によっても向き不向きがあるかもしれない。

 さて、本題はここからである。しかも言語ではなく算数の話だ。
 最近になって、このDuolingoには算数や音楽なども追加されたのだが、面白がって算数(英語版)をやってみたら、なかなかこれが考えさせされるものだった。最近は日本でも当たり前になったが、単純に計算するのではなく、

3 + [ ] = 7

のような問題があったり、文章題がインタラクティブな会話になっていたりと、さまざまな形式で算数の基礎を学ぶようになっている。しかも、

2 + 2 + 2 = [ ]

は、「2 × 3」ではなく、「3 × 2 」のようになっている。多くの言語では、これは、3個の2であって、2が3個ではない。必然的に英語版では英語で考えている。
 そんなふうに面白がって見ていたら、いただけない問題が出てきた。10度より2度低い温度は何度?(もちろん8度)という問題に続いて、

4度の2倍の温度は何度?

とあったのだ。数字を2倍にすることは出来ても、温度は簡単には2倍出来ない。
 2個のケーキの2倍は4個だし、50センチのリボンの2倍は1メートルだが、気温4度の2倍は8度ではないのである。必ずしも説明が適切とは言えないが、熱力学温度で考えるとして、4度の2倍は、華氏の問題なら約468度、摂氏の問題なら約281度とならなければならない。もちろんケルビンなら8度で良い。
 「おいおい、これはあくまでも算数の勉強のための問題であるから、よくわからない熱力学温度など持ち出すな」とお叱りを受けそうだが、そうはいかない。算数の根源に関わる問題だからだ。2倍の意味は数字に2をかけることではない。そもそも小中学校でそう習ったはずなのだが、多くの場合は聞き流すか、先生がちゃんと説明していない。ほとんどの場合、計算方法しか教えていないという事もある。
 Duolingoの算数には、もうひとつ問題がある。縦書きの筆算で未定義の引き算を行なっている。3段になった筆算の2番目の符号が省略されているのだ。こうした問題をやるなら、必ずその定義を記載しなければならない。学んだことを実践した時に不都合が出る。

 文化の違いは興味深いが、算数は文化ではない。算数は(数学は)、その他の教科と違って、物の定義を厳格に適用する必要があるのである。
 かつて、有名なマーケティングの先生の講義を受ける機会があって、興味深くその話を聞いていたら、途中から話に矛盾を感じようになったことがある。興味があって是非とも正しく知りたいと思い質問してみたら、なんとその先生はデータの単位や正規化の意味を知らなかったのだった。そりゃ話が矛盾するわけだ。3メートルのロープと1キログラムのロープのどちらが丈夫か?と聞いているようなものだった。そのマーケット分析手法の考え方は極めて面白いものだったが、結局は最後は直感だと言っているのに等しいのだから一気に興味がなくなった。とても話の面白い熱心な先生だったが、あの先生に学んだ学生はかわいそうと思うほどだった。算数は正しく使わなければならないのだ。

 あー、こんな事書いたらまた叱られる!

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(Floral) Friday Fragments #232


 書いていることが花の話ばかりじゃないし、そろそろ飽きてきたということもあって、冬の間使うことがある Fragment というキーワードに変更、書き方も変えてみた。Friday Fragments、「金曜日のカケラ」という意味だけれど、Google Translate によれば、「金曜日の断片」。どちらの響きが良いかは、お任せします。
 じゃあ、何か話題でもあるの?と聞かれれば特にない。日曜日に時々考えたことを書いているのだが、金曜日にも同じように書くので、日々つらつら考えたことはこちらにまとめようかなという程度なのでご容赦を。

 さて、ここ数ヶ月の間に、家の前の通りにある杭に車がぶつかる事故が2回起きた。正確に書けば、少し蛇行する通りの数十メートルの範囲に、2か所の交差点がある。その2箇所で別々に起きた事故である。
 ひとつは少しだけ折れ曲がったT字路で、くの字の曲がった部分に小道がつながっている。もうひとつはやはりくの字に折れ曲がった形なのだが、こちらはT字路ではなく、この曲がった部分に2方向の小道がつながっている。このくの字の折れ曲がりが曲者で、角度はほんの少しなのだが、直進すれば歩道に乗り上げるような微妙な曲がり方なのである。当然道路管理者はそこに鉄製の杭を何本か打っており、夜間のために反射板をつけている。
 どうしてそんな形になっているかと言えば、歴史的事情である。つまり、その道は静かな碁盤の目のようになっている住宅街のための道路であり、坂道になっているからその碁盤の目に合わせるように地形に合わせて作られているのだ。以前はもちろんそれで問題なかったが、ある日その道は、その住宅街の横を抜けて急な坂道となる丘を越えて反対側に行けるようにつながったのだった。それ以来、徐々に交通量が増え、今ではカーナビを頼りに住宅街を抜ける人もいれば、大型トラックまでが抜け道として利用する。
 そんな中で、何が起こったかはわからないが、2回の事故はその2箇所の別々の場所で、くの字の折れ曲がりをそのまま直進した車が杭を折り曲げるような単独事故だった。前を見ていなかったのか、寝ていたのか、速度の出し過ぎが、はたまたそもそも道が曲がっていることに気付かなかったのか。原因は分からないが、その後道路管理者が来てその折れ曲がった杭を切り取り、赤いコーンを置いて帰って行った。暫くすれば、業者が新しい杭を立て直すことになる。
 普通に考えたらぶつかりようがない。そう思ったが、これが案外そうでもないらしい。日本人駐在員がフランスにきてやらかす事故のひとつが、ロータリーの直進なのだそうだ。ロータリーは、ランナバウトとも呼ばれるぐるぐると回る交差点である。その交差点では、ロータリーに入る前で一時停止し、右側通行なら左回りで、左側通行なら右回りで交差点に入る。日本と同じ左側通行で説明するなら、一時停止したら、右側からロータリーを回ってくる車を優先して、左折でロータリーに入る。その交差点を左折したかったら、最初の出口で左折すれば良い。右折したかったらぐるっと回って3番目の出口で左折する。至極単純な仕組みである。何しろ必ず一時停止で左折だけをすれば良い(フランスは右側通行だから右折)のだ。
 こんな単純なロータリーで、酔っているわけでもなく、一時停止もせずに真っ直ぐロータリーの中心の花壇などになっている部分に突っ込むのだそうだ。何かの思い込みなのか、それとも寝ていたのか。ともかく理由は不明の事故がある。不思議な物である。