Bonne journée, Cross Cultural

時代は浮遊する


 時代は常に流れ続けていて、必ずしも伝統を守ることが良いというわけでもない。もう21世紀になってから四半世紀が経過したのだ。昭和を引きずるような理由もないと時には考える。車を運転しながら聴くFMラジオ(ああ、二十世紀)で何度も流れる最新ヒット曲が、如何にもこうにも昭和を感じるアレンジとなっていたりする。それを古臭いなと思っていたら、若い人が新鮮なアレンジだと言ったりする。そうやって回帰するのも「伝統」ではなくて、時代が浮遊している証拠であるに違いない。

 だからUNIQLOが2012年にステテコを売り出したのも「伝統」ではなく、時代が浮遊し、流れている一部であるにからに違いない。なお、Webを探してみたら、最初にステテコを現代に復活させたのはアズで、2008年のことだそうである。また、女性用にアレンジしたのはワコールで、2011年らしい。
 ただ、子供の頃に祖父が使っていたステテコのイメージは、どうしても捨てきれない。もしかすると正しくは股引き(モモヒキ)だったかもしれないが、膝下くらいの白い下着である。祖父は「ズボン下」と言っていたが、甚平の下に履いていると白い色が見えてみっともないものだった。今ならステテコと言っても白ではなく、柄がついているのが普通だから、あまりみっともないという感覚は無くなっているのだろうが、白いズボン下がチラチラ見えると、どこかだらしなさを感じるのである。
 伝統は伝統であって良いし、神輿をかつぐ人が下帯ではなくトランクスを穿いているくらいだから、それは浮遊する時代の結果なのだろう。余計なことを書くなら、下帯(あるいはふどし)が下着のように言われるのは近年のことだそうだ。相撲の回しも外に見せるものであるし、神輿を担ぐのに見せるのも下着ではないからであって、そうしたあたりでも時代の違いのようなものを感じなくもない。
 とはいえ、その浮遊する時代に古い伝統をベースにした常識が通用しなくても良いというものでもない。近所に女性用のステテコとペラペラのTシャツでゴミ捨てに出てくる女性がいたが、さすがに不愉快さを感じたりもする。どこかでステテコは下着だという感覚があるからだ。かのワコールだってインナーと言っている。

 その下着という感覚で言えば、ステテコの下に下着を履くのにも違和感がある。ステテコは直接肌に身につけるものであって、裾の長いトランクスみたいなものだ。少なくとも、そう祖父には教えられた。だから、ステテコでうろつくなと。そんなことを言われても、物心ついた頃には下着はブリーフショーツだったから、ステテコで歩き回りようがなかったのだが、そうやって自分の中でのステテコのイメージは肌に直接身につける下着として定着してしまっている。ボクサーパンツの上にトランクスの重ね履きなんて、何だか気持ち悪い。
 古い伝統で物事を見てしまっているという自覚はある。それでも、後輩から聞いた別な話でもう一つ驚かされた。その後輩曰く、夏は家ではトランクスで過ごしたりすると言う。下着で過ごすってこと?と聞いたら、案外普通だそうだ。もちろん外出はしないと念を押されたが、案外、下着で過ごすことに違和感がないらしい。
 確かにずいぶん昔に仕事の仲間と旅行に出かけた時、ビールを飲みながら過ごしていた同僚のひとりは下着だった。今時は綺麗なプリントがされているので、あまり違和感がないということらしい。そうであれば、ステテコで過ごすのにも違和感などないのだろう。そう、頭で理解しても、あのペラペラのカラフルなステテコで過ごす気にはなれないことは書いておかなければならない。

 時代は回る。その回り続ける時代の変化に目くじら立てるのは、年寄りの悪い癖だ。そんなふうに思っていないと、本当に歳をとってから、きっと疎まれる年寄りになってしまいそうである。

 さて、冒頭のFMラジオだが、二十世紀の遺物だと思ったら大間違いである。ヨーロッパではラジオのデジタル化も進み、広く普及したメディアとなっている。TVは見ないがラジオを聴くという人も多い。目覚まし時計にFMラジオがついているなんてのが普通に売られているくらいで、日本と同様にリスナーの減少が課題となってはいるものの、不可欠なメディアであるという認識が共有されている。個人的には、ステテコはどうにも微妙だが、ラジオは是非生き残っていただきたい。

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

Loire


A few years ago, I was in the courtyard of a famous castle in the Loire Valley in France. It was just after the COVID-19 pandemic had ended. There were still a lot of cases, and travel was not the time to go, but the Loire Valley was close to my home, so it was a good time to start returning to normal life.

I imagine it’s now very crowded with tourists from all over the world. I lost two family members of my friends during the COVID-19 pandemic. While I’m grateful to finally be back in the world, I don’t want to forget that there are still people I know who feel unsafe. 

Bonne journée

ネコトコトリ(再)


 時々どうして文章を書いているのかわからなくなることがあって、この原稿を書いている今がそのふんわりした不明な瞬間である。役所に出す書類のような物は、そもそも文章を書いているのではなく、役所に出すべき情報を記載しているのであって、ここでの「文章を書く」ということではない。そうした意味で、物を書くのに最初から理由などないのだ。多分。

そもそも理由のない物書きなどないという見方もある。例えば年貢の量を決めるために記録した文書にも、エンタメなどとも呼ばれる小説の類にも、夏休みの宿題にすらも、なんらかの理由がある。長年積み重ねられてきた歴史の中にも、今日書いたばかりの買い物メモにも、同じように目的がある。小説なんて人を楽しませるためであって、そこに目的などないでしょと言われるかも知れないが、書く側にとってみれば、それによって収入を得るという目的があるはずなのだ。そうやって考えると、理由のない物書きなどないのかも知れない。

 それでも時々考える。この文章は、何故書いているのだろうと。そんな、理由のわからない作品(ネコトコトリ)へのリンクをここに置いておく。

 

Bonne journée

大嫌いな雨


ベトつく空気から逃れる場所もない
くすんだ裏通りで俯く
目的地などない通勤路。
行かなければならない場所が
ただそこにあるだけの雲空。
重たいバックパックと
背中に張り付いたシャツと
腕に赤い跡を残す傘。

すれ違う人に顔のない
記号化された街で、
壁の小さな汚れに人の呼吸を感じ、
どこかうれしくなる。
降り出した霧雨も、
息を殺した空気の流れも、
何もかもが停滞する。
大嫌いな雨は美しい。
Bonne journée, Photo

Solarization


The heat of the Japanese summer is now known worldwide. The other day I told a French acquaintance of mine that the temperature has been reaching 35 degrees in Celsius (95 F) every day, and he asked me if the humidity was still high, so I guess it’s well known that it’s hot and humid. Traveling to Japan seems to be popular these days because of the weak Japanese yen, but it seems best to avoid midsummer.

By the way, there is an old photography technique called solarization. It is a phenomenon in which light and darkness are partially reversed in monochrome development by exposing the film to too much light. When walking under the hot summer sun, you may fall into the illusion of solarization. The sparkling light in the photo is always interesting to me.

(簡易訳)最近は日本の暑さも知られてきたらしく、フランス人の知人に相変わらず熱くて蒸してるのか?なんて聞かれる始末である。まあ、その通りなのだが、そんな中を歩いていると、光の加減が妙に見えることがある。白黒写真のソラリゼーションみたいなもので、光と影の関係が怪しくなるのである。