このテキストは、ドイツの療養スパの話を書こうとしてボツにしたネタから日本の部分を取り出して再編したものです。少々個人的な話でもあるのでゴミ箱に捨てようとしていましたが、なんとなく勿体無いので公開(いや後悔)することにしました。
温泉では人前でも裸になるのに、病院で超音波診断を受けたり心電図をとったりするのが気恥ずかしい感じがするのは何故なのか?いや、そんな奴はあまりいないのかも知れないが、少なくとも自分はそうだ。
自分なりに理由を探せば、きっとインタラクションがあるからなのだ。痛くないかとか、苦しくないかと聞かれると、そこに会話が生じるからだ。会話が生じると、途端にその空間はプライベートなものではなく、パブリックな空間に感じられる。周囲が単なる環境ではなくなってしまうのだ。医師や看護師がサッカーのレフリーのように石と同じに見えれば何でもない。でも、石ころなんかではありえない。カーテンが閉まっていようが、病気といった極めて個人的なものであろうが、会話があった瞬間に、交差点のど真ん中とさして違わなくなる。
そんな事を考えていたら、温泉だって会話があると気がついた。
「今日は寒かったねえ。スキーに来たんでしょ。若くていいなあ。」
なんて話をするのは悪くないし、会話がない温泉も妙だ。つまりはパブリックな場所ではないか。そんな場所で裸になるのは恥ずかしくないのはおかしい。しかも、温泉は本当に裸だが、病院ならちょっと服をはだけるだけではないか(はだけるは、開けると書く)。温泉と病院の違いは何なのか?
病院が気恥ずかしいと感じる人はあまり多くはないらしい。白衣恐怖症(医師を見ると血圧が上がったりする症状)なんて言われたことと関係があるのかもしれない。
調べてみると、心理学的には、恥ずかしさとは、「自己評価が低く感じる時の反応」なのだそうだ。複数のサイトにそう書いてあるから、きっとそうなのだろう。ホントかどうかは調べていない。
勝手に想像するなら、人前で間違えたから「自己評価が低く」なって恥ずかしい。場違いな薄汚れた服を着ておしゃれな場所にいるから「自己評価が低く」なって恥ずかしい。身体が弱っているかもしれないから「自己評価が低く」なって恥ずかしい。もしそうなら、超音波で内臓が弱っているのが見えるから「自己評価が低く」なって恥ずかしい。心電図で変な波形がわかるから「自己評価が低く」なって恥ずかしい。そんな風に具体的に言えるのかもしれない。
でも、どこか違う。きっと、感じている恥ずかしさの意味が違うのだ。結局よくわからない。
さて、湯あたりするのであまり温泉には行かないのだが、若い頃はスキーに行くと温泉に浸かることも時々あった。ホントに苦手で、もったいない事に長時間は楽しめない。少し暑い湯に足をつけてもみほぐすだけでも、スキーの疲れが和らぐというのに、いつも烏の行水だ。
ある時、温泉の脱衣場で服を脱いでいると小学生くらいの男の子が一人で入ってきた。温泉で子供がひとりというのも気になるので、声をかける。
「ひとりなの?お父さんは?」
「部屋でビール飲んでる。ひとりで行けって言われた。」
慣れたもので、ひとりでも着替えやタオルなどをバッグに入れて持っているし、棚の使い方もわかっているようだった。きっといつもこんな感じなんだろう。物怖じせず、大人のように何でも自分でやれるようだった。そんな様子を見て、まあ大丈夫だろうとは思ったのだが、流石にひとりは心配なので気にしながら温泉に入ることにした。
その少年はテキパキと服を脱いできれいに畳み、持ってきたバッグに入れて棚に置くと、別なところから白いタオルを取り出した。
「鍵付きじゃなくて大丈夫?こっちのロッカーなら鍵かけられるよ。」
そう声をかけてみたが、余計な気遣いだったようだ。少年はハキハキと答えた。
「大丈夫です。貴重品は持っていません。」
しっかりしたものである。
自分も脱いだ服をしまってロッカーに鍵をかけると、少年が何か言いたげにこちらを向いていることに気がついた。一緒に風呂場に行きたいのかもしれない。
「じゃ、一緒に行こうか。ここ、ちょっと寒いよね。」
そう誘うと、もじもじしながら少し間をおいてこう言った。
「あの、僕も大人になったらそんな風になりますか?」
一瞬意味がわからなかったが、下腹部を向いた視線でようやく飲み込めた。
「体重は何キロ?」
「38キロです。」
多少背丈はあったが、ひょろっと痩せて見えた。
「じゃあ、僕の半分より少し重いくらいかな。これから大人になっていくと背も伸びるし体重も倍になるでしょ。そしたら大人と同じ形になるよ。」
少年はじっと見つめたままだった。
「何か心配?大丈夫だよ。お父さんにも聞いてみたら?」
「なんか恥ずかしいし。」
少年はそのままタオルを持って風呂場のドアを開けて入って行った。小学校の3年生くらいかなと思って話をしていたが、受け応えがしっかりしていたから案外高学年だったのかもしれない。十歳から十二歳くらいの頃は微妙な年齢だ。
自分もそうだった。まだ大人には遠いのに、どこかで大人の感覚も持ち始めている。泊まりがけの学習や修学旅行で友達と一緒にお風呂に入れば、友達の体格を見て色々学ぶし、心配にもなる。
少年にとっては裸を見られることよりも、父親に聞くことの方が恥ずかしいことだったのだろう。まだ性的な恥ずかしさをあまり強く感じてはいないが、気になりだす年齢だ。親に聞くことのためらいや自尊心はあっただろうと想像できる。
しばらくして湯船に浸かりながら当たり障りのない話をし、やがて会話もなくなって、湯気が煙ってよく見えない窓の向こうの雪を見ていた。すると、少年は軽く会釈をして出て行った。
少年に真剣に聞かれた自分もどこか恥ずかしさはあったが、そうは言っても温泉に浸かること自体にはさして恥ずかしさは感じるものでもない。それが、病院であるとどうにも落ち着かない。その差はやっぱり分からない。
ひとつ明確に言えるのは、白衣恐怖は治るとかいった類のものでもないという事だ。やれやれ、この先病気をしたらやっていけるのか。
読み返して気になったので、少し補足します。少年との話はもちろん実話ですが、温泉での出来事は今よりずっと若かった昔のことですし、会話も正確には覚えていません。Blogに書くにあたって、記憶にある内容をある程度差し障りのない表現にして記載しています。