Bonne journée, Cross Cultural

カウンター・カルチャー・ショック(5)

前回から

 きっちりとした真面目な国民性なのだそうだ。そんなことを言われると生きづらい人も多いだろう。ほんとはもっとテキトーに生きたいなんて考えるのかもしれない。

 2分遅れの通勤電車から吐き出された仕事への道すがら、ポケットのゴミを捨てようと周りを見渡してみても、どこにもゴミ箱がない。街中だろうが公園だろうが商業施設だろうが、ゴミ箱を探し出すのは、昨日道に落としたコインを探すより難しい。コインなら大抵落ちたままにそこにあるし、まとまった金額ならきっと交番に届けてもらえる。でも、ゴミ箱を探そうにもどこにもないのだ。それどころかゴミもない。
 ゴミ箱がないからゴミもないのか、ゴミがないからゴミ箱もないのか、まったく無関係なのかわからないが、ディズニーランドにゴミがないのは決してゴミ箱があるからではなく、高頻度で掃除しているからだそうだ。きれいになっていると適当にゴミを捨てにくいという心理が働くらしいが、そんな事の前に努力して清掃しているという事なのだろう。どんな場所だろうがゴミを放置するひとはそうするのだ。だが、街中は高頻度で清掃などしていない。ゴミだらけのパリとの違いは何なのか、皆目見当がつかない。パリだって毎日のように清掃車が走り回っているのだ。
 ひとつ想像するのは東京のリスク低減を重視する文化だ。起きてもいない課題を徹底的に潰すことには、根底にどこか生活に密着したなんらかの文化的な要素があるような気がするのだ。街角からゴミ箱がなくなったきっかけは、ゴミ箱があると不審物を仕掛けられるリスクがあるからと聞いたことがあるが、利便性を求めるマーケットでゴミ箱を撤去する理由にはならないだろう。それだけリスク回避が重要なのだろう。ただ、これはゴミ箱がない理由であって、ゴミがない理由にはならない。きれいにしておかないと世間の目が厳しいかもしれないとか、病気が発生するかもしれないとか、何か理由があるのだろうが、なかなか適切な理由が見つからない。もちろん、きれいにしておきたいからというシンプルな理由はあるのだが、誰もがそうしたいとは限らない。

 個人的にはゴミ箱がなくて困ったことなどないから、それ自体はどうでも良いわけだし、ともかく東京の街がクリーンなのは驚くレベルだ。理由など考える必要もないのだろう。ただ、リスク回避を求める文化だけは少々困る事がある。仕事の場合だ。契約書の文言を弁護士や専門家と練るならリスク検討は重要だろうが、プロジェクトを進めるだけでも、これが失敗するかもしれない、記録を残しておいた方が安心だ、相手先は拒否するかもしれない、などと延々と起きてもいないことを議論する。原則的には仕事は合意で進むから、起きてもいない未来のイシューを解決する作業が長くなる。たった1ドルのレターのために1000ドルを費やすこともあり得ないことでもない。決めたいことはまず根回しの個別ミーティングで伝え、その後で全体ミーティングで合意する。そんな文化はおそらくは日本固有のものだ。
「だって、それはまだイシューではないよね。」
 そんな疑問をフランス人の同僚からぶつけられるのをいつもの事にはしたくない。

 仕事の習慣のようなことを言い出せば、ほとんど褒めることのない文化も日本固有だと思うが、そのあたりの話はやめておこう。仕事は地域差よりも組織差が大きいもので、あまり楽しい話にはならないのだから。

次回に続く