Bonne journée, Cross Cultural

カウンター・カルチャー・ショック(4)

前回から

 東京の移動手段は原則電車という事になっている。もちろん配達や仕事の道具の運搬には車を使うが、商談に出向くのに車を使わないのは暗黙の了解のようなものだ。まして、オフィスに向かうのに、古臭い企業でもなければ、忙しい社長であっても電車を使う人も多い。だからこそ首都圏の道もなんとか走れるわけだ。逆に、電車は大混雑することになる。フランスで満員電車なんてパリ以外は聞いたこともないが、きっと日本だって東京や大阪といった大都会以外は満員電車などないのだろうと勝手に想像している。東京とその近郊だけは仕方がない。人が多すぎる。
 それでも最近はテレワークが当たり前になったからか、記憶しているよりずっと空いている。以前のような呼吸困難になりながら、右に左に揺られるようなことはなくなった。体が傾いているというのに倒れることのないあの不思議な感覚はもはやない。朝の混雑する時間だというのに、場合によっては座って通勤できるのだから環境は大きく変わったのだろう。
 電車の座席に座って仕事に向かうことができるとなれば、その無駄な時間を仕事をしたり語学学習に使えるわけである。ブルターニュにいた頃は、車での移動中にラジオを聴いてリラックスしながら、ついでにニュースなどでフランス語を学んでいたが、実際のところ耳には何も残りはしなかった。確かにいつのまにか聞き取りの訓練にはなっていたのだろうが、運転中は言語に集中できるものではない。電車なら他に気にすることが少ないから、急に辞書を引くことだってできる。しかも日本の電車なら駅ごとにスマホを握りしめる必要もないし、公共の場での会話も少なくなっている。そんなわけで、今では試験前の高校生と並んで語学学習するのが電車で行うルーティンのひとつとなっている。
 この何の心配もなく電車で語学学習できるという状況には、ほんとうに驚かされる。座席に座って膝に乗せたバッグの上にスマホを置き、片手でテキストを繰りながら、もう一方の手でスマホのキーボードを打って”félicitations”という調子である。パリのメトロだったら数日ともたないだろう。「あぁ、出てこないと思いますよ。残念ですが。」
駅で停車した時に堂々とひったくられて、あっと立ち上がった時にはドアが閉まるという様子が目に浮かぶ。駅が近くなったらしっかり握りしめて身体に近づけておいたほうが良い。
 ところが日本の電車ときたら、そもそもスマホを置いて寝ている輩までいる。さすがに危ないと思うが、それだけ安心感があるという事なのだろう。

 そんなわけで、電車の中ではニュースチェックとともに短い語学学習が日課となった。膝の上にスマホを置く勇気はないが、片手で十分である。ところが始めてみるとひとつ大きな問題があった。誰も大声で会話をしていない電車の中がうるさいのだ。
 ひとつの理由はモーター音だが、最近のノイズキャンセルが乗ったヘッドホンなら語学学習には困らない程度に音を低減してくれる。問題は社内アナウンスだ。それでなくても駅間が短い都会のコミューターで、駅を出た直後と駅に止まる直前に何度も駅名やら何やらが繰り返される。自動音声が流れてもなお車掌が駅名を言い、次に優先席への協力が流れ、英語で全部を繰り返し、やがて窓開けへの協力やマスクの着用、社内での会話の中止依頼といったコロナ対策がアナウンスされると、ふたたび英語で全てが繰り返されて、気づけば次の駅がまもなくである。騒音をカットしてもアナウンスはよく聞こえるように調整されているヘッドホンでは、ずっと耳元でアナウンスが続いているようなものだ。何もかもが丁寧な日本の電車は、その代償として、アナウンスという騒音だらけの電車となっていた。知らない土地では頻繁なアナウンスは安心だし、足元に気をつけろというアナウンスすることの意味が良くわからない指示を除けばありがたい。ただ語学学習するにはやかましいということだ。電車は移動手段なのだから何の文句もないが、少々うるさすぎはしないかと思うのである。
 加えて実は目にもうるさい。電車だけでなくバスも相当にうるさくて、それはもう驚くレベルである。吊り広告が目にうるさいのはわかっていた。時に不愉快さをも感じる広告は、それでも以前よりは改善されたそうだが、以前からたびたび指摘されてきた事だ。しかも、広告に加えて、さまざまな情報が目に飛び込んでくる。
 足元にご注意ください。段差があります。手摺におつかまりください。手荷物は棚に。混雑時以外はここには座らないでください。急ブレーキにご注意下さい。ちかんに注意。窓から手を出さないで下さい。優先席。抗ウイルスコート済。換気をしています。窓開けにご協力下さい。
 そんな中にあって驚かされたのが、窓開け目安の定規である。何と全ての窓に、ここまで窓を開けてほしいという線が書いてある。10cmだそうだ。どうして定規のデザインなのか、12cmだろうが13.5cmだろうがどんな幅でも正確に開けられる目盛がなぜ打ってあるのか、そもそも誰のためなのか想像もつかないが、窓開けに協力する時にはちょっと緊張する。きっと多少誤差があっても良いよねと。2分遅れのお詫びを聞きながら、きっと余計なことを考えるのだった。

次回に続く

2 thoughts on “カウンター・カルチャー・ショック(4)”

  1. 「うるさすぎる、目にもうるさい」という印象、よくわかります!一時帰国するたびに感じることです。耳や目が敏感になってしまったのかと思うほど、入ってくる情報がとにかく「やかましい」。母国語だからフィルターなしにどんどん入ってくる、というのが原因なのかなぁとも思っていたのですが、tagnoueさんのオブザベーションに深く同感します! 疲れるんですよねぇ。

    1. 最初のうちは、集中していなくても入ってくる情報に母国語は楽チンでいいなぁなんて思っていたのですが、うるさいのは別問題で、情報過多だからだと結論しました。広告にしても「バーゲン」の一言で十分なのに、そうした情報提供よりどう目立つかに腐心して多くの内容が書いてありますし、コンファタブルな環境は必要なことがすべて準備されていることだとでも定義されているようです。
      もちろんそれと引き換えに情報を探し回る必要はないという利便性はあるのですが、それはコンビニと同じかもしれませんね。コンビニはいらないと思ってますが、あれば便利だなと思って使うんです。そんなものですよね。でも、きっと長期的に見たらない方が幸せです。たぶん。

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