Bonne journée, Photo

ショーウィンドウ

201605-211

おそらくはほとんど誰も気に留めていないだろう。LUMINEカードの広告に書かれたその文字は、電車の広告としては小さくて目立たない。ポスターの中心に丸い皿に丁寧に盛られた美しい料理が置かれている。それは、これからその料理を味わおうとフォークとナイフを手にする直前の目で楽しむ瞬間であって、ひょっとするとムッシューがもったいぶって講釈を述べている最中なのかもしれない。少なくとも、まだフォークとナイフはテーブルに置かれたままで、そこに人の気配も食事という欲望の気配もない。テーブルに料理が供され、これからそれをいただこうと本能が目覚めるまでのわずかな瞬間である。その皿に重ねるように、その小さな文字は置かれている。

ごはんを食べて、おいしいねって言う。

どうという事でもない至極普通の言葉である。しかしそんな平凡な言葉を聞くことがいつも普通とは限らない。普通のことは案外自由が利かないものだ。だから見過ごすこともあれば、逆に気になり出すこともある。そう思いながらその平凡で小さな文字を眺めていると、それが尾崎放哉の自由律俳句のようにも見えくる。

一人の道が暮れて来た

たとえばこんな句である。
広告のコピーとは元来そんなものなのかも知れない。元々は製品の良さや「一度おためしを」といった願望を直接的に訴えるものだろうが、それを受け手視点に置き換えれば、読んだ時に何らかの感情が見えて来るものでなければならなくなる。であれば、ある側面だけをとらえれば、自由律俳句とキャッチコピーの境目は曖昧であって良い。LUMINEカードの広告は、当然プロの仕事なのだということだ。

さて、上の写真は意図とは異なる結果となったものの、頭の片隅にはこんな意図がある。

ショーウィンドウを覗きこむ自分と目があう。

もちろん、自由律俳句でもキャッチコピーでもないが、この写真とセンテンスがもつれ合って、どこかで何かが引っかかったままであることは告白しておかなければならない。

 

Bonne journée, Photo

Friday Flower: little tiny flowers (l.t.f.)

201605-115

I felt after I finished Slaughterhouse-Five that I didn’t have to write at all anymore if I didn’t want to. It was the end of some sort of career. I don’t know why, exactly. I suppose that flowers, when they’re through blooming, have some sort of awareness of some purpose having been served. Flowers didn’t ask to be flowers and I didn’t ask to be me. At the end of Slaughterhouse-Five…I had a shutting-off feeling…that I had done what I was supposed to do and everything was OK .

スローターハウスファイブを書き上げたあとで、書きたいと思わない限り、もはや書く必要はないと感じていた。ある種、キャリアの終わりのようなものだった。正確な理由はわからない。花が咲く時、それは供された目的のようなものを知っているのではないかと思っている。花は誰かに花であってくれと頼まれたわけではないし、私は私であるよう頼まれたわけでもない。スローターハウスファイブを書き上げた時、隔絶されたような気がしたのだが、こうでなければならないと思われたことを全て成し遂げ、全てがOKだったのだ。

Kurt Vonnegut
カート・ヴォネガット

Bonne journée, Photo

little tiny flowers (l.t.f.) – 4th day

201605-114

Most people in the city rush around so, they have no time to look at a flower.  I want them to see it whether they want to or not.
街に住むほとんどの人には慌ただしくしていて花を見る時間などありません。私は、そんな人々が望もうが望むまいが見せたいのです。

Georgia O’Keeffe
ジョージア・オキーフ