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(Floral) Friday Fragments #238


人はいさ心も知らずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける

紀貫之,『古今集』春・42

 春の歌であって、季節が正しくないことをまずは書いておかなければならない。よく知られた百人一首の歌だから、見るなり叱られそうである。ここで謳われているのは梅の花だそうだ。

 分かっていて引用しているのには、多少は理由がある。
 過去に”l.t.f.”という花に関する言葉を引用したシリーズをやっていて、その時にボツにしたネタだが、ファイルを整理したら偶然出てきたというのが直接の理由である。ボツにしたネタを再録するのは心苦しいが、読んでみたらちょっと違った感じ方をした。
 最初の五七は「人はいさ心も知らず」だから、「あなたがどう感じているかわからないが」という妙なエクスキューズみたいなものである。少々皮肉っぽい感じもしないではない。
 最後の七七は「花ぞむかしの香ににほひける」と、今の昔も変わらず漂う梅の香を懐かしく楽しんでいるのだろう。個人的にはあまり梅の香りに思い出もなく、沈丁花や金木犀の強烈な香りの方がかえって思い出深い。もっといえば、匂いなどほとんど感じない百日紅や夾竹桃に汗のような匂いが結びついている。夏の終わりになると、少し青臭い百日紅の鮮烈な夏色と湿った汗の匂いが「花ぞむかしの香」なのだ。

 さて、写真は白いニチニチソウでは?と突っ込まれそうである。その通り、百日紅でも夾竹桃でもない。でも、ニチニチソウは、キョウチクトウ科なのだそうだ。太平洋の島々でレイに使われ、ラオスやインドでもポピュラーなプルメリアもキョウチクトウ科。ニチニチソウが夏の花なのは当然である。

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(Floral) Friday Fragments #237


 最近、誰も彼もが苛立っているように感じられるのは、自分自身が苛立っているからかもしれない。
 いろいろ言いたいこともあるし、困ることも多いのだが、かといってそれを書き連ねたところで何かが変わるわけでもない。言いたいことがあれば、まずは自分が動いた方が良い。だからここには書かずにきた。そもそも自分が苛立っているから周囲に対してその苛立ちを向けているのであって、自分が心地良く過ごしていれば、気にならないのだろうと考える。

 そんなふうに考えるのだが、それでも時々思いを吐き出したくなることもある。
 しばらく日本を離れ、コロナが終わって日本に帰ってみると、挨拶を交わす人も少なくなり、狭い場所で道を譲る人もいなくなっていた。通勤電車で隙間を開けて協力することも少なくなり、道路の右側を自転車が猛スピードで駆け抜ける。信号が変わっても気にせず歩き、バスが滞る。
 知人に気持ちを吐露すると、ひとりはこう説明した。
 コロナで会話しないことが普通になった。コンビニでもレジでの会話がないのは、接触を避けているからだ。電車は隙間を開けて乗るものとなった。だから隣に立たれるのが不快になった。自転車のマナーが悪いのは、コロナとは関係ない。単に電動アシストつきの自転車が普通になっただけだ。
 そう言われてみれば、その通りなのかもしれない。朝、コンビニの店頭で元気よく「おはようございます」と声をかけていた自分は迷惑な存在だったのかもしれない。昔から自転車のマナーは欧米と比較して目に見えて悪かったから、電動になればもっとひどく感じされるのは当然だろう。

 誰もマスクをすることがなくなって、コロナが過去の話となった今、元に戻るだろうと考えるべきではないのだろう。聞けば、挨拶をするのは「うざい」と考える人も少なくないのだそうだ。せっかく挨拶しない世界になったのに、挨拶するのは不愉快だと。ようやく電車が混み合わなくなったのに、また混み合ったからと言って、自分を犠牲にしたくはないと。
 米国でもWokeを否定する動きが支持を得た。日本でも「クソ真面目」は今でも使われる嫌な言葉だ。Wokeであるから面倒だというわけでもないので、単純に気分的な問題だ。では、これが現代社会固有の雰囲気かといえば、そうでもない。80年代の”Hip to be square”の意味は、Square=四角=生真面目なのが、Hip=イケてるという意味であって、反体制的な奴らが真面目になっちゃってというアイロニーだとも言える。

 そんなわけで、イカれた平日も終わりである。そろそろ秋にならないと、いつまで経ってもイライラする来週がまた始まってしまう。

Bonne journée, Cross Cultural

時代は浮遊する


 時代は常に流れ続けていて、必ずしも伝統を守ることが良いというわけでもない。もう21世紀になってから四半世紀が経過したのだ。昭和を引きずるような理由もないと時には考える。車を運転しながら聴くFMラジオ(ああ、二十世紀)で何度も流れる最新ヒット曲が、如何にもこうにも昭和を感じるアレンジとなっていたりする。それを古臭いなと思っていたら、若い人が新鮮なアレンジだと言ったりする。そうやって回帰するのも「伝統」ではなくて、時代が浮遊している証拠であるに違いない。

 だからUNIQLOが2012年にステテコを売り出したのも「伝統」ではなく、時代が浮遊し、流れている一部であるにからに違いない。なお、Webを探してみたら、最初にステテコを現代に復活させたのはアズで、2008年のことだそうである。また、女性用にアレンジしたのはワコールで、2011年らしい。
 ただ、子供の頃に祖父が使っていたステテコのイメージは、どうしても捨てきれない。もしかすると正しくは股引き(モモヒキ)だったかもしれないが、膝下くらいの白い下着である。祖父は「ズボン下」と言っていたが、甚平の下に履いていると白い色が見えてみっともないものだった。今ならステテコと言っても白ではなく、柄がついているのが普通だから、あまりみっともないという感覚は無くなっているのだろうが、白いズボン下がチラチラ見えると、どこかだらしなさを感じるのである。
 伝統は伝統であって良いし、神輿をかつぐ人が下帯ではなくトランクスを穿いているくらいだから、それは浮遊する時代の結果なのだろう。余計なことを書くなら、下帯(あるいはふどし)が下着のように言われるのは近年のことだそうだ。相撲の回しも外に見せるものであるし、神輿を担ぐのに見せるのも下着ではないからであって、そうしたあたりでも時代の違いのようなものを感じなくもない。
 とはいえ、その浮遊する時代に古い伝統をベースにした常識が通用しなくても良いというものでもない。近所に女性用のステテコとペラペラのTシャツでゴミ捨てに出てくる女性がいたが、さすがに不愉快さを感じたりもする。どこかでステテコは下着だという感覚があるからだ。かのワコールだってインナーと言っている。

 その下着という感覚で言えば、ステテコの下に下着を履くのにも違和感がある。ステテコは直接肌に身につけるものであって、裾の長いトランクスみたいなものだ。少なくとも、そう祖父には教えられた。だから、ステテコでうろつくなと。そんなことを言われても、物心ついた頃には下着はブリーフショーツだったから、ステテコで歩き回りようがなかったのだが、そうやって自分の中でのステテコのイメージは肌に直接身につける下着として定着してしまっている。ボクサーパンツの上にトランクスの重ね履きなんて、何だか気持ち悪い。
 古い伝統で物事を見てしまっているという自覚はある。それでも、後輩から聞いた別な話でもう一つ驚かされた。その後輩曰く、夏は家ではトランクスで過ごしたりすると言う。下着で過ごすってこと?と聞いたら、案外普通だそうだ。もちろん外出はしないと念を押されたが、案外、下着で過ごすことに違和感がないらしい。
 確かにずいぶん昔に仕事の仲間と旅行に出かけた時、ビールを飲みながら過ごしていた同僚のひとりは下着だった。今時は綺麗なプリントがされているので、あまり違和感がないということらしい。そうであれば、ステテコで過ごすのにも違和感などないのだろう。そう、頭で理解しても、あのペラペラのカラフルなステテコで過ごす気にはなれないことは書いておかなければならない。

 時代は回る。その回り続ける時代の変化に目くじら立てるのは、年寄りの悪い癖だ。そんなふうに思っていないと、本当に歳をとってから、きっと疎まれる年寄りになってしまいそうである。

 さて、冒頭のFMラジオだが、二十世紀の遺物だと思ったら大間違いである。ヨーロッパではラジオのデジタル化も進み、広く普及したメディアとなっている。TVは見ないがラジオを聴くという人も多い。目覚まし時計にFMラジオがついているなんてのが普通に売られているくらいで、日本と同様にリスナーの減少が課題となってはいるものの、不可欠なメディアであるという認識が共有されている。個人的には、ステテコはどうにも微妙だが、ラジオは是非生き残っていただきたい。

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(Floral) Friday Fragments #236


 どこがFloral?と聞くなかれ。ちゃんとお皿の中に花が入っている。

 ハワイ好きな方ならきっとポキ丼なんだなと分かるのだろうが、実は食べている本人はよく分かっていない。
 普段からほとんど生魚は食べないのだが、なぜかアヒポキとかブルターニュのPlateaux de fruits de mer(海産物盛り合わせ)なら食べないこともない。だから、ハワイアン・レストランに行くと、ここぞとばかりにポキ丼などを食べる。生魚を食べるチャンスなのだ。ただ、問題は、それが何だか分かっていないということである。
 まあ、食材を見れば入っているものも多少は分かるし、きっと日系人がアレンジした現地の料理なんだろうななんて想像もするが、伝統的なものなのか、ジャンクフーみたいなものなのか、普通にレストランにあるものなのか、専門店で食べるものなのか、何が入っていればポキなのか、ちっとも理解していない。いや、そもそもポキって何?
 (個人的には)それで良いのである。困るわけでもない。行ったこともないから想像があっているかどうかさえわからない。少しだけ現地の方には申し訳ないなとは思うのだが、世界中を旅するわけにもいかない。仕事でハワイに用はないし、知り合いもいない。唯一ハワイに立ち寄ったことがあるという知人に聞けば、トランジットで空港に降りただけというし、本当に縁がない。
 結論は、いつも同じ。まあいいか。

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(Floral) Friday Fragments #235


 偶然の一致のことを英語でcoincidence(コインシデンス)と言う。
”What a coincidence!”
は、
「なんという偶然!」
フラ語だとcoïncidence(コアンシダンス)。
« par une heureuse coïncidence »
と言えば、
「幸運な巡り合わせにより」
といった意味になる。要は、たまたま偶然に一致した(符合した)事実のことであって、有名なものに、ノルマンディー上陸作戦の暗号が解答になったクロスワードというのがある。

 そのような大袈裟な(大ごとな)事ではなくても、日常の中にはたくさんの偶然の一致というのがある。
 その昔、ロサンジェルス郊外の大きなホテルに泊まり、巨大なホールラウンジの隅で軽い食事をしていた時のことである。ダウンライトが輝き、賑やかな会話があちこちから聞こえてくる。まだ明るい時間帯だというのにカクテルを傾けるグループもあれば、書類を睨みつけながらビールを飲むサラリーマンもいた。自分は、コーヒーを飲みながらスナックをつまみ、同僚と世間話をしていたのだった。

 そんな中、ウェイターがその巨大なラウンジの中をトレーを片手に走り回っていた。支払いは部屋につけてあるので、特段ウェイターに頼むこともない。ところがである。ウェイターのひとりが大急ぎでまっすぐ自分に向かってくる。なんだろうと思ったら「お電話です」と言う。ありがとうとお礼を言ってウェイターから電話を受け取ると、それはロスに住んでいる知人からの電話だった。会話は簡単に終わり、すぐにウェイターに電話を返したのだが、どうも腑に落ちない。その知人は、どうして私がそのラウンジにいると分かったのか。確かにロスに滞在することは伝えていたが、私がいつどこにいるかなど分かるはずもなかった。しかも、あのウェイターは、どうして私がわかったのか。知人が風貌を伝えたとしても見つかるわけがない。たとえ東洋人の顔立ちだと伝えたところで、ロスには無数の東洋人がいる。

 頭を捻っていると、後ろを通り過ぎた集団に同僚が突然声をかけた。
「おいおい。こんなところで何しているの?」
そう言って、その集団と親しげに話している。聞けば、偶然同じホテルに滞在していた知人だそうだ。偶然だと同僚は言うが、だんだん奇妙な気分になってきた。確かにロスには仕事で滞在していたのであって、似たような仕事をしている知り合いがたまたま同じホテルに泊まることだってありそうではある。でも、その前の電話は偶然などあり得ない。

 結局それ以上は何も起きなかったし、なぜ電話がかかってきたのかもわからないままとなった。

 それから5年ほどして、自分はフランスの地方のホテルに滞在していた。ロスの時とは違う内容だったが、やはり仕事でそこに来ていたのだった。時間は夜の10時頃だった。
 ホテルのレセプションで話をしていると、奥のエレベーターから出てきたのは、かつて仕事を一緒にしたことがある知人だった。何もこんなに広い世界なのに、フランスのこんな小さな地方ホテルで出会うなんて、あり得ないだろ。そんな会話をしたと記憶している。

 偶然なんてそんなものなのだろう。

 そう言えば、英語と津軽弁だったかは似ているといったような話もあった気がするが、これも偶然とはいえ面白い。
“Nous avons tant mangé.”(ヌザヴォン・タン・マンジェ)
意味は、「私たちは、たんと食べた」である。英語で言えば ‘so much’ を意味する ‘tant’ は、とてもたくさん=「たんと」である。まあ、正確に言えば、tantの最後のtは、通常は発音しないから、「タン」ではある。

 そんなわけで、冒頭の写真はフランスの古城の庭である。どこか空間が歪んで見えるが、何か操作したわけでもAIで生成した画像でもない。