Bonne journée

Prejudice

201808-411

「男性が女性の服を選ぶ」のがフランスとか、「不都合には遠慮なく文句は言うが不都合を気にしない」のがフランスとか、そんな見方がステレオタイプで一面的なのは分かっているが、フランス人といるとなんとなく納得してしまうものである。そこにはその裏返しとしてのステレオタイプな日本がある。店頭で男性が女性のために服を選ぶなんて気恥ずかしいとか、ちょっとした事なら文句を言うものではないとか、そんな類である。
そんな凝り固まった偏見も、この程度のレベルであればさして害はない。小さな偏見を冗談として楽しみ、それにとらわれずに生きれば良い。問題なのはその偏見が冗談の範囲を超えてしまった時であって、一線を超えたかどうかは誰もが容易に気づけるものである。気付こうとしさえすればであるが。
ここでこの話題を続けるつもりは毛頭ない。ある映画を見て一番輝いていたと感じた女優への偏見に満ちた少々悲しいニュースに触れ、ふと思うことがあっただけである。愛着を感じているものと少し異なっていたからつい不平を漏らしただけなのか、どこかに強い偏見があったのかは様々だろう。
人は思いの外わがままな存在である。ある街に、信号で停止した車の周りを巡ってコップに金を集める男性がいた。想像どおりこぎれいな格好というわけではなく、ウィンドウの向こうでカップを差し出す事で無言で物乞いするわけだが、大抵は運転席に座って目を合わせる事なく青信号を待っている。物乞いの男性は、もらえなくても何も主張しないし、信号が変わればふと姿を消している。誰も金を出すことなどないように見えるが、何年もそうやっているのだから誰かしらがコップに金を入れているのだろう。
ところが何年かしてその交差点に行ってみると、その物乞いの男性がいない。今日はもう集めるのは終わったのかななどと思いながら翌日に通って見ても、その日も姿を見ない。これが何日か過ぎると、不思議なことに心配になってくる。名前も知らなければ話をしたこともない。そもそも1ユーロだって渡したことがない。それなのに心配する理由もなさそうだが、病気でもしたのではないかと考えている自分がいる。
ご都合主義と言われればその通りである。人は見たいものしか見ようとしないものなのだ。