Bonne journée, Cross Cultural, Photo

Loire-2


Why visit an old castle? Maybe it’s because it has historical value, maybe it’s simply beautiful, or maybe it’s part of a tour organized by someone. In my case, it’s all of those reasons, plus the desire to relax.

If it’s a famous place, it’s bound to be far from crowded and relaxing. This may seem contradictory, or at least illogical. But as you probably all know, visiting a tourist spot isn’t just about seeing it, it’s also sometimes about talking with your partner, family, friends, and even strangers. Old castles always spark conversation, because many people have been there, whether you know them or not.

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(Floral) Friday Fragments #237


 最近、誰も彼もが苛立っているように感じられるのは、自分自身が苛立っているからかもしれない。
 いろいろ言いたいこともあるし、困ることも多いのだが、かといってそれを書き連ねたところで何かが変わるわけでもない。言いたいことがあれば、まずは自分が動いた方が良い。だからここには書かずにきた。そもそも自分が苛立っているから周囲に対してその苛立ちを向けているのであって、自分が心地良く過ごしていれば、気にならないのだろうと考える。

 そんなふうに考えるのだが、それでも時々思いを吐き出したくなることもある。
 しばらく日本を離れ、コロナが終わって日本に帰ってみると、挨拶を交わす人も少なくなり、狭い場所で道を譲る人もいなくなっていた。通勤電車で隙間を開けて協力することも少なくなり、道路の右側を自転車が猛スピードで駆け抜ける。信号が変わっても気にせず歩き、バスが滞る。
 知人に気持ちを吐露すると、ひとりはこう説明した。
 コロナで会話しないことが普通になった。コンビニでもレジでの会話がないのは、接触を避けているからだ。電車は隙間を開けて乗るものとなった。だから隣に立たれるのが不快になった。自転車のマナーが悪いのは、コロナとは関係ない。単に電動アシストつきの自転車が普通になっただけだ。
 そう言われてみれば、その通りなのかもしれない。朝、コンビニの店頭で元気よく「おはようございます」と声をかけていた自分は迷惑な存在だったのかもしれない。昔から自転車のマナーは欧米と比較して目に見えて悪かったから、電動になればもっとひどく感じされるのは当然だろう。

 誰もマスクをすることがなくなって、コロナが過去の話となった今、元に戻るだろうと考えるべきではないのだろう。聞けば、挨拶をするのは「うざい」と考える人も少なくないのだそうだ。せっかく挨拶しない世界になったのに、挨拶するのは不愉快だと。ようやく電車が混み合わなくなったのに、また混み合ったからと言って、自分を犠牲にしたくはないと。
 米国でもWokeを否定する動きが支持を得た。日本でも「クソ真面目」は今でも使われる嫌な言葉だ。Wokeであるから面倒だというわけでもないので、単純に気分的な問題だ。では、これが現代社会固有の雰囲気かといえば、そうでもない。80年代の”Hip to be square”の意味は、Square=四角=生真面目なのが、Hip=イケてるという意味であって、反体制的な奴らが真面目になっちゃってというアイロニーだとも言える。

 そんなわけで、イカれた平日も終わりである。そろそろ秋にならないと、いつまで経ってもイライラする来週がまた始まってしまう。

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Mostly Monochrome Monday #417


When you gaze intently at the flowers blooming in the fields, you may suddenly find yourself lost in the light filtering through the forest, losing track of where you are.
But don’t worry, it can be a pleasant thing.

野原に咲く花をじっと眺めているといつの間にか林の向こうに漏れる光に埋もれ、どこにいるのかわからなくなることがある。
心配しなくても良い。それが心地良いのだから。

A Part of Mostly Monochrome Monday

Bonne journée, Cross Cultural

時代は浮遊する


 時代は常に流れ続けていて、必ずしも伝統を守ることが良いというわけでもない。もう21世紀になってから四半世紀が経過したのだ。昭和を引きずるような理由もないと時には考える。車を運転しながら聴くFMラジオ(ああ、二十世紀)で何度も流れる最新ヒット曲が、如何にもこうにも昭和を感じるアレンジとなっていたりする。それを古臭いなと思っていたら、若い人が新鮮なアレンジだと言ったりする。そうやって回帰するのも「伝統」ではなくて、時代が浮遊している証拠であるに違いない。

 だからUNIQLOが2012年にステテコを売り出したのも「伝統」ではなく、時代が浮遊し、流れている一部であるにからに違いない。なお、Webを探してみたら、最初にステテコを現代に復活させたのはアズで、2008年のことだそうである。また、女性用にアレンジしたのはワコールで、2011年らしい。
 ただ、子供の頃に祖父が使っていたステテコのイメージは、どうしても捨てきれない。もしかすると正しくは股引き(モモヒキ)だったかもしれないが、膝下くらいの白い下着である。祖父は「ズボン下」と言っていたが、甚平の下に履いていると白い色が見えてみっともないものだった。今ならステテコと言っても白ではなく、柄がついているのが普通だから、あまりみっともないという感覚は無くなっているのだろうが、白いズボン下がチラチラ見えると、どこかだらしなさを感じるのである。
 伝統は伝統であって良いし、神輿をかつぐ人が下帯ではなくトランクスを穿いているくらいだから、それは浮遊する時代の結果なのだろう。余計なことを書くなら、下帯(あるいはふどし)が下着のように言われるのは近年のことだそうだ。相撲の回しも外に見せるものであるし、神輿を担ぐのに見せるのも下着ではないからであって、そうしたあたりでも時代の違いのようなものを感じなくもない。
 とはいえ、その浮遊する時代に古い伝統をベースにした常識が通用しなくても良いというものでもない。近所に女性用のステテコとペラペラのTシャツでゴミ捨てに出てくる女性がいたが、さすがに不愉快さを感じたりもする。どこかでステテコは下着だという感覚があるからだ。かのワコールだってインナーと言っている。

 その下着という感覚で言えば、ステテコの下に下着を履くのにも違和感がある。ステテコは直接肌に身につけるものであって、裾の長いトランクスみたいなものだ。少なくとも、そう祖父には教えられた。だから、ステテコでうろつくなと。そんなことを言われても、物心ついた頃には下着はブリーフショーツだったから、ステテコで歩き回りようがなかったのだが、そうやって自分の中でのステテコのイメージは肌に直接身につける下着として定着してしまっている。ボクサーパンツの上にトランクスの重ね履きなんて、何だか気持ち悪い。
 古い伝統で物事を見てしまっているという自覚はある。それでも、後輩から聞いた別な話でもう一つ驚かされた。その後輩曰く、夏は家ではトランクスで過ごしたりすると言う。下着で過ごすってこと?と聞いたら、案外普通だそうだ。もちろん外出はしないと念を押されたが、案外、下着で過ごすことに違和感がないらしい。
 確かにずいぶん昔に仕事の仲間と旅行に出かけた時、ビールを飲みながら過ごしていた同僚のひとりは下着だった。今時は綺麗なプリントがされているので、あまり違和感がないということらしい。そうであれば、ステテコで過ごすのにも違和感などないのだろう。そう、頭で理解しても、あのペラペラのカラフルなステテコで過ごす気にはなれないことは書いておかなければならない。

 時代は回る。その回り続ける時代の変化に目くじら立てるのは、年寄りの悪い癖だ。そんなふうに思っていないと、本当に歳をとってから、きっと疎まれる年寄りになってしまいそうである。

 さて、冒頭のFMラジオだが、二十世紀の遺物だと思ったら大間違いである。ヨーロッパではラジオのデジタル化も進み、広く普及したメディアとなっている。TVは見ないがラジオを聴くという人も多い。目覚まし時計にFMラジオがついているなんてのが普通に売られているくらいで、日本と同様にリスナーの減少が課題となってはいるものの、不可欠なメディアであるという認識が共有されている。個人的には、ステテコはどうにも微妙だが、ラジオは是非生き残っていただきたい。