Cross Cultural

Patchy rain

201408-023世界中に天気予報を提供している予報会社のウェブサイトを見ていると、普段あまり見かけない予報が出ていたりする。耳慣れない単語に大雑把な地域と時間。初めて見ると、なんだか分からない印象である。テレビの天気予報はさらに曖昧だ。特に衛星放送だったりすると、かなり大まかで、ここがどこだか分からないということもしばしば。曰く、「ヨーロッパ北部は、今日は概ね patchy rain である。」3時間毎の降水確率はどうなってるのかとか、横浜の夕方の時間帯は降っているのか曇りなのかとか、やたらと細かい予報に慣れていると、大雑把な天気予報はほとんど役に立たないような錯覚に陥ってしまう。
ヨーロッパから明日日本に向かうというのに、「日本」は概ね雨だと言われても、どう考えても大阪と東京が同じ天気とは思えない。そう考える。そして、案の定、飛行機に乗った途端、「東京は曇り時々晴れ、気温は30度の予報」とアナウンスを聞き、スクリーンの天気予報で西日本を中心に雨のところがあると説明していたりすると安心する。半日遅れでもよほど正確ではないか。

とはいえ、ヨーロッパの人が大雑把なわけではない。皆が見ている情報である。しっかりとした予報会社もあるし、今や、天気予報はグローバルなデータで行われている。1時間毎の予報があり、アメリカの会社が日本の各都市の予報を出していたりもする。ようは、視点やニーズの違いなのだろう。

 

20130916-001シドニーやパリでは、雨が降っても傘をささず、襟を立てて歩く人を多く見かける。傘をさしているのは、皆、旅行者なのではないかと思いたくなる。少なくとも、明らかに住んでいそうな人を見ていると、傘を持っていないことが多い。もちろん、傘をささずに歩けるような人は、旅行者のような格好ではないということだろう。あるフランス人に聞いたら、家に傘はあるが持ち歩いたことがないという。少し待てば止むし、ほとんど車で移動だし、持ち歩く理由がないのだそうだ。特に女性には傘を使う人も多いようだし、雨に無頓着というのは、あまりにステレオタイプな見方であろうが、確実に日本よりは傘を使わないとは言えるだろう。

そんな文化の違いもあって、日本語には雨に関する単語が多いという説もある。音もなく静かに降る小粒の雨を小糠雨(こぬかあめ)と表現するが、確かに雨を小糠に例えるのは、風情があるというだけでなく、生活文化の背景があってのことだろう。
小糠雨の反対ではないが篠突く雨(しのつくあめ)となると、細竹で突き刺すように激しく降る雨であり、これまた篠という文化背景がありそうな言い回しである。
今時はほとんど聞かないが、秋霖(しゅうりん)という言い方もある。秋雨とは響きの違う言い方に、使い分けたくなる単語である。
音の響きという点では、小夜時雨(さよしぐれ)も古風で良い。秋霖の季節が終わり、しばらくすると、小夜時雨の季節となる。コートが欲しくなっても季節の変わり目までは恨めしくならない響きである。

 

こうやって考えると、何となく日本語の背後にある雨の感覚と表現の広がりに目が行くが、実際には、その土地の文化と言語に詳しいかどうかの違いである事には気付かなければならない。イギリスで雨が rain と shower だけというわけではない。冒頭の patchy rain は天気予報で使われる言い方で、情緒あるという表現ではないが、つぎはぎの疎らな雨という、少し分かりにくい日本語にはない感覚である。英語もフランス語も得意ではないし、語彙も多くないので何とも分からないが、北部フランスなどで patchy rain を実感することはある。降ったり止んだりというのとは少し違う。もっと地理的に見た感覚である。恐らくは、篠突く雨のように、日常ではほとんど使われない雨に関する単語が各言語にあるだろう。
ついでに天気予報で使われる〜もちろん日常でも使われる〜単語を少し拾えば、 drizzle は霧雨が近い。一面の雲を表す overcast という単語は、英語の授業では出てこなかったように思われる。

 

さて、「ヨーロッパ北部は、今日は概ね patchy rain である。」という曖昧としか思えない表現だが、実際は、滞在中は十分に正確である。こんな予報が出ていれば、いつ雨が降るかわからないし、関東の天気でありがちな、降ればしばらくしとしと降りで、止めばどんより曇り空という感じではない。晴れたかと思えばざっと降り、いつに間にか止んだかと思えば再びポツポツ、そしてまた晴れ間という天気だったりする。12:00から15:00の降水確率50%曇り時々雨でも、午後は patchy rain でも情報としてはさほど変わらない。知りたいのは、せいぜい、雨が降る可能性があるのかどうかだけである。それによって、朝、傘を車に積んで仕事に行くか、健康のために自転車で行くかを決めるのだから。
「今日の降水確率は、午前中10%、午後30%、晴れ時々曇り、山沿いを中心に雷雨のところがあるでしょう。」と「晴れ、カミナリの可能性あり」との差異は思いのほか小さいのかもしれない。

Art, Cross Cultural

写真撮っても構いません

 

レオナルド・ダ・ヴィンチ作「聖アンナと聖母子」は、ルーブル美術館に無数にある傑作のなかでは穴場である。展示室というよりは廊下に掲げられたその作品は、天を指し示す「洗礼者ヨハネ」と共に、静かに来場者を待つ。三角形に配された安定した構図と穏やかなトーンは、ゆっくりと眺めるのが一番あっている。未完とはいえ、ダ・ヴィンチが最後まで持っていた3枚のひとつである。完成度も高い。
巨大な作品が多いルーブル美術館では小ぶりな作品であるが、けして小さくはない。むしろ、目に付く作品である。しかし、ありがたいことに、ゆっくり眺められる程度に、その周りは混雑していない。足速に通り過ぎるひとがほとんどであって、せいぜいとなりあるヨハネと共に一瞥をくれて立ち去る程度である。なるべく空いているであろう平日の午前中を狙い、訪ねたら、絵を独占して飽きるまで眺めるというのが良い。時間が許されるパリ在住者が羨ましい。
その一方で、モナリザは、人と人との隙間からちらりと見えた知人を渋谷の雑踏のなかで捜すかのようである。ルーブルまで行って、見ないで帰るわけにもいかないだろうが、やっと見つけた知人は、ショーウィンドウのガラスの向こうにいて会話もできない。せめて写真だけでも撮って帰りたいところだが、人混みのなかではそれも難しい。ルーブルは、いたるところに記念写真のスポットがあるが、恐らくは、一番難しいのがモナリザであり、その次が、「サモトラケのニケ」やドラクロワの「民衆を導く自由の女神」だろうか。ともに高さが3mを超え、写真に収めるには少し離れなければならないからである。 Continue reading “写真撮っても構いません”

Cross Cultural

愛すべきカナダ

 

カナディアン・ロッキー観光の拠点、バンフの朝は、季節にもよるが、朝早めに起きて早朝のガラス細工のような空気とローズに染まる山を感じるのが良い。まだ、人通りの少ない時間帯であれば、観光地であることを実感するエンジン音を聞かなくて済む。早起き鳥も少なくはないが、前の晩、思ったよりはしゃぎすぎた若者は、まだベッドの中で動けないでいる。早朝ならば、近代的なホテルと整備された歩道から足を踏み出すことなく、リゾート地らしい空気を存分に楽しむことができる。いくらでも肺に溜め込んで良い。すべての空気を独り占めにしても、減る事はない。
問題は、肺の大きさではなく、時間である。わずかな時間で空気も景色も大きく変化し、二度と同じものはない。ふと気がつくと、ローズだったはずの山は金色から昼間の鮮やかで騒々しい色へと変わり、研ぎ澄まされた鮮烈な朝の空気は、人の声と野生の声が入り混じったわずかに暖かなものへと入れ替わる。そうなるともはやメープルシロップたっぷりのパンケーキが早く食べたくて、体が騒ぎ出す。

カスケードマウンテンの見事に傾いた地層が目の前に迫るロッジから、早朝の空気を吸収するため抜け出し、近くのベンチに座る。独り占めである。もちろんベンチではない。ローズに輝くカスケードマウンテンをである。正しく言えば、カスケードマウンテンですらなく、世界を独り占めした気分である。
そんな中で空気を少し変えたのは、まるでそこに住んでいて、毎日同じ時間に散歩を楽しんでいるかとも見える老人だった。
「おはよう。どこから来たのかね。」
カナダの山を歩いていると、誰もがなにかしら挨拶をする。見知らぬ相手か親しい相手かは関係ない。日本の山でも以前はそうだったが、最近は習慣が薄れつつある。人が多くて、挨拶していると、それだけで一日が終わってしまうからかもしれない。ともかくバンフでのその日の第1号は、その老人だった。
「そうか、日本からか。ずいぶん遠くからきたね。ここは初めてかい?」
毎日、日本人の乗ったバスが次々と到着し、数多くの日本人がバスからはき出されて、バンフの華やかな街を歩いて回る。珍しいことでもない。恐らくは、ほとんど誰もいない朝の散歩に、ちょうど良い話相手だったのだろう。年齢差も英語の良し悪しも気にせず、いろいろと訪ねてくる。
「山に上がる途中にある温泉には行ったかな?」
まだ行ってないが、面白いところかと尋ね返すと、再び歴史やら何やらを説明してくる。そして別れ際の念押しである。
「ぜひ、温泉に行きなさいね。」
そして、数歩あるいて再びもどり付け加えて曰く、
「裸はだめだよ。水着を着てね。」
一体、いつの時代のことなのか、それとも未だに裸でカナダの温泉に入る日本人がいると言うのか、日本の伝統とカナダの文化の区別がつかないやつが未だにいると思うのか。ともかく、わざわざ戻って言うこととも思えないが、愛すべきはおしゃべりなカナダ人である。

 

日が登り、午前中は、サルファーマウンテンに向う。ロープウェイでも登山道でも登れる山である。無数にあるトレッキングコースの中でも比較的簡単で、登りやすい。ただし、ようやくたどり着いたてっぺんで、ロープウェイ客の身軽な格好に、勝った様な負けた様な微妙な気分を味わうこと請け合いである。その点ではロープウェイを選択しておいたほうが無難と言える。
頂上からの眺めはその手軽さを思えば、望外に雄大である。ロープウェイの乗り場でしつこくお国自慢を言い続けた韓国人学生からようやく逃れ、マウンテンゴートが待つ山頂に向かって、ロープウェイは動き出す。韓国人学生に何があったか知らないが、彼は、相手が日本人と知るや、いかに韓国が優れているかを身振り手振りを交えて語るのだった。きっと、よほど嫌なことがあったのだろう。だが、申し訳ないが、楽しみにしていた眺望が待っている。あまりゆっくりとはしたくない。
ロープウェイというよりゴンドラというべきか、その小さな空中散歩に乗り合わせた相方は、またも老人だった。今度の老人はご家族を連れている。が、しかし、話すのはやはり老人である。どこから来たのかと、またしても同じ質問。答えも同じ。
「そうか、日本からか。ずいぶん遠くからきたね。ここは初めてかい?」
私は2回目である。老人は、驚いた様子で言う。
「私はカルガリーの郊外にずっと住んでいるが、ここに来るのは今日が2回目だよ。あんたの方が遠いのに。若い人はいいな。」
カルガリーからはわずか100kmである。地元とはそんなものであろう。
そんな話をしながら、次第に話はカルガリーの過去に及ぶ。こうなると、今度は相手の話していることが所々わからなくなる。恐らくは70から80年前に時は戻る。そもそも背景となる知識がない。だから分からない単語も想像がつかない。仕方なく、こうお願いする。
「あまり英語が得意ではありません。少し、ゆっくりと話してもらえますか?」
話が途切れるのであまり言いたくはないが、仕方ない。伝わることが大事である。分かったふりをしても面白くない。
「おや、すまない。君はフランス語を話すんだね。」
だから日本から来たと言ってるのにと思ったが、ここはカナダである。西海岸には東洋系も多く、母国語は英語とフランス語の国なのだとあらためて知ることになった。愛すべきはおしゃべりなカナダ人である。

 

翌日は、ホテルで予約しておいた氷河ツアーに参加した。各国語のツアーがあるが、何故か日本語の料金は高い。倍の値段である。またしても難しい単語が出てきて分からなくなる事は想像できるが、迷わず英語のツアーに申し込んだ。
朝出発で明るいうちに戻ってくる、1日コースまではいかないが、比較的長いコースである。いろいろなところに停車しては、遠くから氷河を眺めたり、渓流を散策したりする。確かに場所の説明や集合時間の案内は英語だが、英語で困るような内容ではない。アサバスカ氷河に入るために雪上車乗り換えた後は、いろいろと氷河の成り立ちや科学的な説明が続くが、素人向けのツアーであって、専門家向けではないから単語は平易である。氷河に降り立った後は、希望すれば専門用語を交えて説明してくれるが、こちらはブルーアイスを見ては写真を撮るのに忙しい。その上、備え付けのリーフレットには、フランス語版やスペイン語版に加えて、日本語版もある。確かにいろいろ聞かれるよりは、ある程度のことは、リーフレットを読んでもらったほうがガイドとしても楽に違いない。
バスツアーのドライバー兼ガイドは若い女性であった。女性がドライバーというのも珍しいわけではないが、大型バスのドライバーは重労働である。比較的華奢な身体をいっぱいに使って大きめのハンドルを回しながら、ヘッドセットでアナウンスをしなければならない。案の定、バスはハイウェイの真ん中で突然停止した。道幅が広く、日本のハイウェイよりは交通量も少ないが、高速道路の中で停止するのはあまりいい気がしない。社内では、何か起こったかと声がかかる。
「ごめんなさい。ギアが入らないのよ。ちょっと待って。」
彼女はクラッチをガチャガチャと踏み直すと両手を使って入りたがらないギアをどうにか押し込み、再び平然と走り出した。何故か拍手が起こり、彼女はありがとうと礼を言う。そうなる前に整備をした方が良いと思うが、言っても仕方ない。
ツアーの帰りは、主要なホテルに停車しながら客を順に降ろしていく。私が泊まっているホテルはコースに入っていないし、行くところもないので、何となく最後までバスで過ごした。街中を一周するので、ちょっとした観光である。とは言え、だんだんと人が少なくなり、最後のひとりとなった。
「どのホテル?」
バス発着所の近くのロッジの名前を告げると、コース外だが近くを通るから乗せて行ってくれるという。このあとの予定もないので、とりあえず乗せて行ってもらうことにした。
運転席のそばの椅子に移動し、世間話をしながら、恐らくは世界最大級のタクシーがゆっくりと走る。乗り心地はあまりよくない。ドライバーは、離婚して新しい職を探したら観光バスの仕事に落ち着いたらしい、少し危なっかしい運転手である。愛すべきはおしゃべりなカナダ人である。

 

カナディアン・ロッキー観光の拠点がバンフならば、その玄関口はカルガリーである。オリンピック開催地であり、厳しい冬にも暖かく買いものができるよう屋内通路が張り巡らされ、近代的なビルが建ち並ぶ。多くの観光客がこのカルガリーからグレイラインのバスや車でバンフに向う。
このカルガリーの郊外にカルガリーの歴史を学べる大きな施設がある。中には開拓時代の砦や街が再現され、鉄道には蒸気機関車も走る。中で働く人は、その時代の衣装で質問に答えてくれたりもする。なかなか魅力的な場所ではあるが、遠くからの観光客はほぼ立ち寄ることはない。
訪ねたのはずいぶん昔の事なので、ひょっとすると、今や人気の場所となっているかもしれないし、すでに存在していなくても驚かない。何となく中途半端な施設であった。
そんな場所ではあるが、どうしても訪ねて見たくて、カルガリーから向うことにした。もらった案内よりもどう考えても歩く距離は長かったが、いくつも交差点を超えてようやく最後の交差点までくると、そこにはまたしても老人である。
「どこから来たのかね?」
またしても同じ質問。ひとことふたこと話すと信号が緑に変わり、いつもの質問から脱出に成功した。
だが、世界は単純ではない。車線数の多いカナダである。しかもどういう訳か押しボタン式の歩行者用信号がついている。広い道幅を対岸までゆっくりと横断していると、渡り切ったあたりで信号が変わってしまった。振り返ると、先ほどの老人は中州に取り残されている。数歩だけ歩きかけたところで、引き返して押しボタンを押した。恐らくは、一定時間で信号は変わるだろうし、そのうち誰かが来るだろうが、そのままにしておくのは気が引ける。しばらくして再び歩行者信号が緑に変わり、老人はゆっくりと渡ってきた。
「いやあ、ありがとう。君がボタンを押してくれなかったら、一生あそこにいなきゃならないかと思ったよ。」
愛すべきはおしゃべりなカナダ人である。

Bonne journée, Cross Cultural

ダイアローグ:電車内の風景2

電車の中でぼんやりしていたり、道を歩いていて前を歩く集団があまりにゆっくりであったりすると、どうしても耳に入ってしまう会話がある。聞いては失礼だと思っても、聞き逃したいない話もあれば、聞きたくないのに聞こえてしまう話もある。

沖縄出身の恐らくは女子大学生と関東出身のその友人が、つり革をつかんでとなり合い、楽しそうにおしゃべりをしている。日常的な話題から、主題は出身地の話になってきた。どうやらSPAMとは何かが関東出身のお友達には分からないらしい。

【沖】あれって豚肉の固まり。気持ち悪いって言う人いるけどおいしいよ。
【関】なんか変な野菜切る調理具あるよね。
【沖】一人暮らしはじめてすぐにお母さんが送ってきた。チャンプルーだって1回しか作った事なかったのに。
【関】へえー、お母さんて、やっぱ沖縄の人なんだね。
【沖】ううん、高知。
【関】えっ?あんた、どうやったら高知の人が沖縄の人と知り合えるのか聞いといたほうがいいわよ。
【沖】…
【関】沖縄って(高校の)修学旅行は東京?
【沖】ううん、北海道。
【関】えっ?全部通り越して北海道行っちゃうわけ?
【沖】ジンギスカン食べた。
【関】じゃあ、小学校だと奈良・京都あたりに行くわけ?
【沖】ううん、小学校に修学旅行があるの?(沖縄は)体験宿泊学習だけだったよ。
【関】えっ?どこでやるわけ?
【沖】渡嘉敷島。
【関】どこよそれ。

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電車は遅れない

だいたいにおいて、日本人が几帳面すぎるという反応がかえることになるが、電車が遅れるのが当たり前という感覚をフランス人らしいというのは、どう考えてもステレオタイプにすぎないかとも思う。フランスでも電車は遅れないように運営されており、遅れることを当然ととしているわけではない。TGVが1時間も遅れればお詫びもするし、アンケートを配ったりもする。あまりに長時間の遅れともなれば、サンドイッチの弁当が渡されることもあるという。遅れる頻度が日本より高いというだけのことである。

ただし、それでも人が遅れを許容するかどうかは別である。理解していても、あるいは最初から諦めていたとしても、自分が当事者になれば、それを当たり前と考えないのが人である。当事者としてひととおりの苦情を言い、どうにかならないかと尋ね、なす術がないとなれば、「これがこいつらの問題なのだ」とあたり構わずぼやく。そして最後に、これがこの国なのだと理解する。それが実際のところである。

事実、12時間のフライトのあとで1時間半のTGVの遅れをなす術もなく待ち、ようやくのことで乗ってもさらなる長旅が待っていたと愚痴をこぼしてみれば、「それがフランスである」と悟りとも思えるひとことの後には、自分がいかにひどい目にあったかを語る人も多い。諦めているのであって、当然と考えているわけではない。そのあとに、どうして遅れが多いのかを分析する人が多いのもまたフランス人らしいが、それもまたステレオタイプな見方なのだろう。

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