
Silent Sunday

capturing in prose


ブルビネラという名前だそうだ。フラワーアレンジなどに使われるらしいが、これまで花屋さんでは気がついたことがなかった。調べたら真っ先にニュージーランド原産と出てきたが、それは同じ種の仲間の話で、どうやらこちらは南アフリカ原産。この写真は南房総で撮ったもので、やっぱりあのあたりは温暖なのだろうなんて考えていたら、寒さには強いのだと書いてあった。ひとつ勉強になったななんて思いつつも、一方で、きっと忘れてしまうんだろうなとも思う。ただ、ちょっとだけ期待が持てるのは、別名の方である。African Cat’s Tail、猫のしっぽ。こちらは覚えていられそうである。

今日のポストは完全に予約投稿であって、このテキストを書いているのは実のところ6日も前の3月8日だったりする。写真はさらに一週間前なので、本当の時間は自分でもよくわからない感じになっている。予定がたくさんあるのは良いことなのだが、皺寄せも大きいので、「やることないから本でも読もうかな」なんて考えるくらいがちょうど良い。もう、積読が多すぎて本を買う気も起きない訳で、現代社会は忙しすぎるんじゃないかなんて、過去も知らずに言いたくなる。
先日、フランス在住のフランス人と昔話をしていたら、しみじみと夏の湿気が懐かしいと言う。前の仕事がひと段落して今は一緒に仕事をすることも無くなったが、そのフランス人が言うには、あの頃は良い時代だったのだそうだ。曰く、
雨が降り続く長い冬を抜けてようやく天候が回復してきた4月から5月にお前がフランスに来て、一週間もかけて議論を重ね、その議論に従って翌年までの計画を検討し、7月の頭に俺が東京に行って計画を確定させる。そうやって前に進めてきたから、抜けるような青空の冬の東京も、梅や桜が咲く春の風景も、赤く染まる秋の紅葉も知らない。記憶に残っているのは、馬鹿みたいに高温多湿の暗い「梅雨」だけだ。「梅雨」という単語も覚えたし、「梅雨」のクレイジーな蒸し暑さも、次に進めるというシグナルだった。だから、ホテルに戻ってシャワーを浴びても一向にさっぱりしないベトベトした梅雨が懐かしいと。
はい、すみません。思わず謝りたくなる日程だったと思い出して、梅も桜も見たことないの?と確認する言葉を思わず飲み込んだ。フランスにだってアーモンドやプラムの木もたくさんあるし、桜並木もない訳じゃない。それでもたまには日程を変えてもよかったかななんて今更思っている。

(日本語は下に)
Come to think of it, I wonder when I started to feel a sense of elegance when I see red and white plum blossoms. When it was no big deal to carry my skis and visit ski resorts in northen and then middle Japan, I used to take naps on benches on the platform at Otari Village Station at Nagano in the middle of winter, but I would freeze to death if I did it now. I should be aware that I am no longer young, since I have come to take a break by viewing the warm plum blossoms. Just as spring comes after repeated cycles of warm and cold weather, the passage of time changes the way I see things.
とうとう3月も最終週以外は完全には空いていない状況になってしまった。隙間時間なんてたっぷりあるのだが、何かしらひとつでもやることが入っていると、その日はなんとなく他に割り当てたくない気分になる。その昔は年度末の忙しさみたいな話も聞こえてきたが、今の仕事は会計年度=カレンダーだから、3月が特段忙しい訳でもない。スタッドレスタイヤを交換するとか、植え替えをするとか、そんなちょっとした予定が入っているだけである。
ある程度の年齢になると「キョウヨウ」とか「キョウイク」が大事だそうで、つまりは「今日、用事がある」とか「今日、行くところがある」とかが健康を保つらしい。そんな事を気にするような年齢でもないが、知人の中にはそれなりに高齢になっている人もいて、「あっという間だよ」なんて脅されている。ちょっと前までは、そんな脅しも愛嬌みたいなものだったが、最近はそうなのかと考えないこともない。そんなわけで、用事が入っているのは良いことなのだろう。
そういえば、なんて思うのである。いつから紅梅白梅を見て風情を感じるようになったのかなと。スキーを担いで東北と中部のスキー場を梯子することも何でもなかった頃は、真冬の小谷村の駅のホームにあるベンチで昼寝したこともあったが、今なら凍死しそうである。暖かな梅の花見で一息つくようになったのだから、若くはないと自覚すべきなのだろう。暖かくなったり寒くなったりを繰り返しながら春になるように、時間が過ぎて行くことで、またひとつ、見えるものが違ってくるのだ。

ディズニー映画「美女と野獣」はフランスが舞台なので、映画の中ではたくさんのフランス語が登場する。とは言っても、例えばアメリカ人がフランス語を理解するわけでもないから、誰でも知っている単語だったり、知らなくてもなんとなくフランス語感のある単語という程度ではある。日本人が見たって「ボンジュール」と言い合う姿は理解しやすい。主人公のBelle(ベル)は「美しい」という意味だし、ガストンといつもいるLeFouは「おバカ」。街を歩きながら歌う「Belle(ベル)/朝の風景」の中には誰でもわかるバゲットが出てきたり、フランスの語感のあるprovincial(田舎の)という単語が使われていたりもする。
その「朝の風景」の軽やかなリズムに乗せてベルが本を読みながら歩く活気ある街の風景の中に、日本人にはあまり馴染みのない中世フランスらしい描写がある。街の建物の二階からたらいの水を撒くシーンである。ベルはどこかの店の前に吊るされた看板を手で押してその水を避けるのだが、その撒かれた水が流れるのがこの写真の溝である。いわゆる側溝が中央にあるものなのだが、石畳の路地の中央に凹みがあって、そこを雨水が流れ排水するようになっている。
写真は歴史的建造物としての「溝」ではなく現代に整備されたものであるし、流れているのは雪解け水である。単に道の中央に凹みをつける伝統がそのまま残っているというだけの話である。だが、その歴史を紐解くと、ちょっと違った世界が見えてくる。つまり、この中央の凹みは伝統ではあるのだが、古くは現代のような雨水を流すだけの目的では無かったのである。この凹みは下水だったのだ。中世のフランスには、下水道の仕組みはほとんどなかったから、生活排水はこの道の中央の溝を使って流されていたということらしい。
かのマリー=アントワネットがフランス国王となるルイ16世に嫁いだ時、母親である女帝マリア=テレジアは、あまりに田舎であったフランスに嫁ぐ娘を心配して大量の付人をつけたと記録に残っている。当時はオーストリアが欧州の中心であり、フランスは洗練された国とは言えなかったということらしいが、庶民の生活が貧しかったことは間違いない。田舎は特に整備されていなかった。上下水道が整備されたローマは、中世に完全に失われていたのだろう。上水道もないから、井戸から水を汲んで桶に入れ、家の中に置いておいたのだ。その桶の水で煮炊きをし、体を洗い、汚れた水は窓から投げ捨てられた。だから建物のすぐ外を歩く時は、注意して歩かなければならなかった。
ベルが避けた水は、夜の間に使った後の汚水だったはずである。爽やかな朝の風景も、写真の雪解け水も、そうした背景を頭に入れてみると、不衛生な感じがしてくる。汚水には、当然、排泄物も含まれている。専門の掃除夫がいて、その掃除夫が綺麗にした後でなければ、歩いただけでズボンは真っ黒に汚れたらしい。この「路央下水溝」が暗渠化されるのは18世紀以降。病気も蔓延するわけである。ディズニー映画は理想論でできているという事を言う人がいるが、それはある程度正しいとはいえ、案外真面目に歴史的考察が反映されているらしい。
最近はすっかり忘れていたが、元々このブログは比較文化論的な考察が主目的だった。まあ、国や地域による違いで驚かされたことを書き殴っているだけのことをかっこよく言っているだけで、大したことは書いていないのだが、急に思い出して書いてみた。興味がなかったら申し訳ない。いや、興味があろうがなかろうが、面白くなかったら申し訳ない。