Books, Photo

A Book: The Things They Carried

201706-411English Text at Bottom.

単語を並べたところで何かを伝えたり表現したりすることはできない。詳しく伝えるためには表現を尽くさなければならない。新しい事ができそうでいつも何かを探し続けていた学生の頃、そう友人に議論を吹っけたら、翌週に彼は見事な単語の羅列を持ってきた。それがどんなものだったか詳細には憶えていないが、少なくともそれはびっしりと書かれた欲しいもののリストで、彼の思いを的確に表しているように思われた。それを遠くから見ていた後輩は、いつも多くを語らず、ただ淡々と詩を書いているようなところがあった。そしてその鉛筆の先から現れた文字は、誰も見た事がない映像となってノートから零れ落ちた。欲しい物のリストで自由さを見せつけた彼が今何をしているのか分からないが、詩を書いていた彼女は立派に詩人となっている。表現とは本来自由なものなのだろう。

もう随分前に読んだものだが、最近、連作形式となる最初の作品を原文で読み返し、表現の自由さを再度実感することとなった。計算尽くなのか偶然なのか、最初のうちはかっこいい表現だななどと思いながら読んでいた筈が、いつの間にか気怠さやら緊張感やら様々な気配が纏わり付いてくる。まぁ、戦争なんてロクなもんじゃない。

201706-412

When I was a simple minded student major in physics, I got into an argument with my friend about a power of expression. I had believed only a dense and profound expression should be the goal to show what I thought. He didn’t talk much but the next week he brought his wish list. It was just a list of words but I found it told everything he wanted. He was always free to do anything and I had my own invisible ceiling.

I’ve ever read it in Japanese. Indeed it was translated by Haruki Murakami and, as you can easily imagine, with beautiful words. A few days ago, I rediscovered the paperback in my bookshelf and decided to read the original text. It was a lucky moment.

最近読んだ本

本当の戦争の話をしよう(文春文庫)
The Things They Carried
ティム・オブライエン 著, Tim O’Brien, 村上 春樹 訳 

 

 

Books, Photo

A Book: 写真がもっと好きになる。

This article was written only in Japanese.

ファインダーを覗き込むと案外その風景はつまらない。何となく感じた空間の広がりも、湿った青い空気も、澄んだ窓の向こうの光も、どこか平板な映像となって現れる。ただ、ピントの合っている部分とそれ以外のぼやっとした部分が入り混じっていることで、ようやく頭が空間を理解し何かに納得する。そんなものである。人の目は、見ようとするものすべてにピントを合わせ、見たくないものを視界の遠くに追い遣ろうとするものなのだ。それでもシャッターを切れば、フォーカスを合わせようなどと思わなかった部分までが、時に鷹揚に姿をあらわす。たとえ見たくなかったものであれ容赦ない。

だからレンズを何かに向ける時、ファインダーの隅々まで覗き込み、距離を見計らって絞りを変える。見たいものをしっかりと捉え、余計なものを消し去るために。隅々まで美しい風景ならば絞り込んで全てを写し撮っても良い。時には望遠レンズを使って空間を刈り取ることもあるだろう。遠くのものも近くのものも同じ矩形に封じ込め、見たいものが重なり合ってそこにあるように。

201704-414そうやって考えながら撮った写真を眺めていると、ふと気付くことがある。違っているようでいつも同じ矩形を切り取っていると。違うものにレンズを向けて違う光の中でシャターを押し、数年前と寸分違わぬ写真が残る。良く見れば違っている部分もないではないが、薔薇か葡萄か程度の違いでしかない。そこでようやく思い出すのは、撮りたいものを撮りなさいという誰が言ったか分からないひとことだ。けだし名言。なるほど時々iPhoneのほうがいい写真が撮れるのは、そういうことだ。撮りたいときにいつもの一眼レフがないから仕方なかったiPhoneが、予想外の写真を残す。

「ほぼ日」の連載が元だそうだ。残念ながらその連載を知らないが確かにウェブ風の体裁ではある。とまれ、その内容は写真の世界で迷子になりかけのアマチュア・フォトグラファーにはなかなか参考になる。「基礎的な技術ならもう分かっている。でも、問題はそんなことではない。教科書には書いていない何かが足りない。」そう思いながら読めば案外得るものも多いだろう。技術が分からなくても良い。技術の話はほとんどない。ただ写真に興味があれば手に取る価値はある。
ひとつだけ困った事がある。この手の本の書評にはいい加減な写真は使いにくいのだ。

最近読んだ本

写真がもっと好きになる。(SBクリエイティブ)
菅原 一剛 著

Books

A Book: あの日、僕は旅に出た

This article was written only in Japanese.

最近は週末を無為に過ごしているようで、どこかいつも落ち着かない。かつては金曜の夜から何かと忙しく、土曜も早朝から動き回り、それがようやく終わるのが日曜の夜だった。週末に動き回るから体を休めるのはデスクワークの平日。逆だろうと誰かが指摘してくれそうな気がして、かえってそれが生きる拠りどころのようですらあった。だったら、かつてのようにまた何かをし続けてれいば良いのだが、その方法が今は分からない。体力の問題でもなく、方法がないというわけでもない。ただ、どこかできっかけを見ようとしない癖がついたのだ。
学生の頃、夜間の危険な工事でお金をいただき、一緒に高いスキーブーツを買った仲間はもうずっと連絡が取れていない。社会人になってすぐ、まだ高いレストランを躊躇していた頃、少しずつボーナスを出し合ってようやく買ったジェットスキーにおかしな名前をつけようと、いつまでもアイデアを考えていた仲間とは、しばらく会えていない。誰もが忙しく、誰もが無為に週末を過ごす。Twitterのくだらないつぶやきと怪しげな広告にふと我にかえるころ、ようやく過ぎた時間を振り返る。そして思うのだ。以前のように旅に出たいと。1泊2000円の4ベッドルームで贅沢な朝食が付いていたとか、湖の向こうが見たいと自転車で走り始めたら、3時間経っても同じ風景だったとか、そんな思い出話を自分に語りかける。それは妙な感覚であり、そしてどこか日常である。

この本、古いバックパッカーなら必ず懐かしく読める。文芸作品ではないから、時にぶっきらぼうな表現や単純化されたイメージに物足りなさを感じないこともない。でもそれで良い。いつの間にか日々を過ごすことと旅が重なりあって、そんな世界の中に自然に入り込むことができるのだ。

書評の時は本の表紙を掲載してきたが、このところkindleで読むことが多く残念ながら物理的な本が手元にない。せめて旅に関連しそうな写真を選んでみた。

最近読んだ本

あの日、僕は旅に出た (幻冬舎文庫)
蔵前 仁一 著

このシリーズでは書籍を取り上げたことによるいかなる経済的利益も得ていない。リンク先はAmazonであるが、これは広く使われているという単純な理由からである。

Bonne journée, Books

読書

 

201702-312

「平日は目の回るほど忙しいので、読書はかけがえのない趣味です」と言う人がいる。きっと素晴らしい週末を過ごしているに違いない。ほっとする週末に、カーテンや木々の隙間からもれる柔らかな日射しのなかで、いつもの場所とは異なるどこかへのドアを開けるのは、至極簡単なことだ。本を開くだけで良い。ブラームスのレクイエムでも聞きながら指環物語を繰れば黒い影がまとわりつき、深煎りのコーヒーを飲みながらサガンを開けば少しだけ懐かしい時代のフランスがあらわれる。

「読書は脳の食事です」と言う人がいる。ガツガツと音を立てて読む姿をなんとなく想像するが、実際はゆったりと豊かな人生を歩んでいるに違いない。通勤電車の揺れる車内でさっとkindleを取り出し、その少し指紋に汚れたスクリーンに新しい自分の影がかすかに落ちる。やがて降りる駅のアナウンスが聞こえてくる頃には、脳のどこかに次の読書のアイデアが生まれ、飲み込んだ文字はすでにエネルギーとなっている。読書は欠くことのできない生活の一部だ。

自分にとってはどうかと自問すれば様々な答えが出てくるが、ひとつ加えるなら、読書は身嗜みである。本を読まずとも生きていくことはもちろんできる。それでも読書は無くせない。

今日の写真は横浜港。東京都庭園美術館での読書に憧れるが、横浜港周辺での読書も悪くないに違いない。

201702-311

Books

A Book: 優雅なハリネズミ

201701-411This article was written only in Japanese.

日常のように淡々と時が過ぎ、日常のように終わりが曖昧なまま過去となる。そうやって心のどこかに小さなトゲが残される。容赦ない自然の惨禍も玄関先の蔓薔薇も同じように傷痕を残しはするが、突きささったトゲはいつまでも小さな痛みを与え続け、誰ひとりその終わりに気づくことはない。日常のみが、ただ終わりを告げる。それが日々を過ごすということである。
通勤電車のつり革に必死でしがみつき、その日のちっぽけな出来事を思い返しながら、子供時代に過ごした遠い田舎の小さな町の嫌な出来事が通り過ぎるのを眺める事も、朝の出がけに郵便受けを覗き込み、その日のくだらない予定を反芻しつつ、ふと見つけた差出人に忘れていた記憶を呼び起こす事も、全てが区切りのはっきりしない時間の中に刻まれた昨日の断片でしかない。オレンジ色に反射する幸せに満ちたレンガの壁も、忘れてしまいたいくすんだ会議室の壁も、同じ空間を共有している。それが過ぎて行く日々である。
そうした変わることなど無い日常は、唐突にねじ曲がる。不意の出会いも思いがけない偶然も、ある日突然日常の一部となって踏み込んでくる。だから誰もが後ろめたい何かを隠している。自分の息をするのに必要な半径の中に誰かが不意に入って来ないように。

最初に粗削りな印象を強く感じたことだけは、あらかじめ告白しておかなければならない。決してネガティヴな感情を抱いた訳ではないが、だからと言って、しばらくは洗練された作品といったポジティヴな印象には程遠いものでだった。それが、ページを繰って新たな段落に出会うたび、いつの間にか粗削りなことが必然であるように思えてくる。そうした不思議な作品だ。幾重にも折りたたまれた異質な層が、後半になって急に滑り出す。慌てて前のページを見返しても、どこかに適切なページが見つかる訳でもない。読み終えてからようやくもやもやとした影が見えたりする。売れるわけだ。

優雅なハリネズミ
ミュリエル・バルベリ (Muriel Barbery) 著、 河村 真紀子 訳