Bonne journée, Cross Cultural

hot springs

 硫黄の香りは消して好きではないが、ひどく苦手というわけでもない。とは言え、火山性ガスに含まれる硫化水素は、引火性がある上に、濃度が高いと毒性もあって、さらに腐ったような臭いまでする。わざわざ嗅ぎたいとは思わない。なのに、その硫化水素の発生する場所に人は好んで行く。温泉はそれほど魅力的なのだろう。

 何度か書いているが、実は温泉は苦手である。いや、苦手なのはお湯であって、温泉の香りや温泉成分ではない。熱すぎると湯あたりしてしまうのである。長時間お湯に浸かっていると、風呂を出た後で眩暈がしたり、子供の頃は湿疹が出たりした。どうやら前者は頭と首筋をしっかり冷やすことである程度回避できるらしい。子供の頃の湿疹は、温度差によるものらしく、今ではもう問題ない。
 そんな状況だから、温泉を目的とした旅行はほとんどしたことがないのだが、久しぶりに温泉に行ってみることにした。もちろん目的は温泉ではなく、美味しい食事である。でも、せっかくだから温泉にも浸かりたい。
 湯船に浸かるのを短めにすれば、周りに迷惑をかけることもない。周囲の皆さんだって、いい歳したおっさんが裸で倒れているのを助けたいはずがない。見て見ぬふりをされてしまったところで文句は言えない。あんなの触れたくもないなんて言って遠巻きにされても、当然である。だから、少しでも気分が悪くなったら、とっとと冷水を浴びて上がるつもりだ。

 といったわけで、珍しく温泉に浸かってぼーっとしてみたのだった。
 そもそも暖簾をくぐる時から、今どきの温泉の小綺麗さにはすっかり驚いたのだが、その話は書かない。ええ、そうですよ、行ったことないの?と言われるだけなのは目に見えている。じゃあ、この後何か面白い話があるかと言えば、ない。単なる温泉に浸かっただけの報告なので、読み飛ばしていただいても文句は言えない。

 さて、脱衣所のロッカーに貴重品とバスタオルを放り込んで、服を脱ぎ始めたくらいまでは、微かに硫黄の匂いがするなと思った程度だった。ところが、不思議と鼻が慣れてきたら、むしろ硫黄の匂いを強く感じてきた。
 浴場のドアを開けたらそれなりに明確な匂いがして、温泉ってこんなに匂いがしたかなぁなんて感慨に耽ってしまう。それくらい時間が空いていた。身体を洗って胸まで湯船に浸かれば、なかなかの温泉らしい。足の指までぬるぬるとした感触がして、ずいぶんと長いこと温泉に浸かっていなかったのだなと実感した。
 最初のうちは肩近くまで温まってみた。何しろ肩凝り持ちである。しっかり温めて揉みほぐす。だが、熱い湯が苦手というのもあって、まもなく隅っこの段差で胸より少し下あたりまで浸かることにした。半身浴である。幸いにも混雑していなかったから、気兼ねなく段差を占有できる。それでもだんだん頭が暑くなってきて、終いには縁に腰を下ろして足湯みたいになってきた。後から来た人が、遠巻きに段差のない部分からお湯に入る。タオルを頭に乗せて風呂の縁に座っているやつがいるから、気を遣って近くを通るのを遠慮してくれたのだろう。申し訳ない。ちょうどいいタイミングだと、露天風呂に移動した。
 屋根はあるとは言え、露天風呂である。そこそこ本降りの雨が降り出していて風が吹き抜けている。まだ夏だというのにドアを開けた瞬間から寒い。濡れた身体を風が冷やす。奥では先客が手すりに上半身を預け、外を眺めるようにして半身浴している。それを見て、ふと気がついた。ここで半身浴ならのぼせない。首筋は涼しく、お腹より下は熱い。これならOK。しばらく木々が揺れるのを眺め、筋を伸ばした。そうか、こうやっていれば温泉でのぼせることもない。首筋がしっかり冷える。ようやく安心してゆっくり出来た。今頃気がついたのか?という感じである。
 ぼんやりしていると下らない事を考える。どうして男性の風呂には普通の石鹸ではなく、男性用石鹸とかが置いてあるんだろう。ここで大きな地震でもあったら、この露天風呂は崩れないのかな。あまり虫が飛んていないのは、どうしたことだろう。そんなくだらない事を考えている事に気づいて我に帰ったりもした。せっかくの温泉で何悩んでいるんだよ、である。
 程なくして、細身でかなり背の高いお父さんが、半分くらいしか背丈のなさそうな小学校入学前くらいのお子さんを連れてやってきた。まだ小さいのにもう露天風呂デビューか?まあまあ広い風呂だが、広く使ってもらおう。もう自分は十分ゆっくりと浸かることができた。

 最近はサウナブームというのもあってか、昔に比べれば若い人も温泉に慣れている。友達同士で行くくらいだから、不必要に恥ずかしがったり、気を遣ったりすることもない。気を遣うようでは友人同士で行ってもリラックスできないだろう。自分が若かった頃は、コンプライアンスなど重視されなかった時代だから、温泉や公衆浴場は難しい場所だった。それが今ではほとんど気にならない。誰も互いを気にせず、自然に過ごしている。タオルで隠す人もほとんどいない。露天風呂で入れ替わったお父さんと子供も、何も気にしていなかった。転ばないように手をつないで並んでゆっくり歩いてくる。
 小さなお子さんが、背丈の高いお父さんに支えられながら、ゆっくり階段を降りてくるのが妙に可愛らしい。まだ少し幼さの残る丸いお腹と丸い肩の小さな男の子が、ひょろっと背が高くて厳つい肩のお父さんの手をしっかり握る。それでもその男の子は、前をしっかり見ている。つんと突き出た小さなおちんちん。大人のお父さんのはずっと大きい。当たり前のことなのだが、親子の極端な体格の違いがなんだか微笑ましかった。
 そろそろ入れ替わり時だった。お父さんも気を使うだろうなと、湯船から立ち上がって場所を替わった。
「空けてもらってすみません。」
「いやいや、ちょうど上がるところです。ごゆっくり。」
昔はこうやって世間を学んだんだよなあ、なんて余計なことまで考えた。

 子供の頃は、温泉旅館には何度か連れて行ってもらったし、学校の先生がどういう理由だったか思い出せないのだが、奥日光から入ったハイキングコースに連れて行ってくれたこともあった。湯本から切込湖・刈込湖を通るコースである。温泉というと思い出すのは、日光だったり那須だったりする。
 切込湖・刈込湖は、勝道上人が、昔この地に住んでいた毒蛇をこの湖に狩り込めたという伝説がある。そんな話は日本中にあるわけだが、日光の近くの那須にも殺生石伝説というのがある。どちらも火山性の土地と関係がありそうな話ではある。だからどうしたというわけでもないのだが、子供の頃によく行った日光や那須は、自分にとっては硫黄の匂いのする場所であって、得意になったスキーやスケートとも、苦手となった温泉とも関連する身近な場所である。

 嫌いなわけじゃない。熱いお湯が少し苦手だっただけなのだ。

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