Cross Cultural

Silent Mode

201409-015Written only in Japanese.

走り出したその車内は、意外に静かだ。旅を共にする人々の話し声や雑誌をめくる音に覆い隠されて、小さな機械音もほとんど聞こえない。TGVの車内でウトウトとしかけた乗客にとっての一番のノイズは、むしろすれ違うTGVの風圧による。バンと大きな音をたてて窓を叩く風は、速さの裏返しである。

意外なほどにスマートフォンを操作する乗客も少なく、誰もが自分の隙間時間をそれぞれの流儀で過ごす。それでも、車内で忙しなく電話をする人々は少なくない。ビジネスが止まらないのは世界共通。車内での電話は禁止されているが、連絡をとりたいという欲望はどこにでもある。電話が繋がると、あわててデッキに向かう姿は日常的だ。自己主張と社会的責任のバランスは、電話が繋がったらデッキに向かうという形でとられているのだ。たまにはずっと大声で話し続ける輩もいるが、それも世界共通。デッキまで大声で話しながら移動するのを良しとするか、そもそも電話をすることからしてマナー違反とするかはそれぞれだろうが、少なくともフランスらしい風景ではある。混雑した日本の通勤電車とは比較しようもない。ただ、新幹線でもマナーをしっかり守ろうとする日本の風景は、少しだけ堅苦しいのかも知れない。

201409-017マナーモードか通話可能かは、車内アナウンスでもしっかり案内されるが、TGVの場合はステッカーが貼ってある。このステッカーが可愛らしい。何ひとつ言葉はいらないそのステッカーを見れば、フランス語が分かる必要もない。センスいいなとちょっと感心。

201409-016

 

Bonne journée, Cross Cultural

良いご旅行を

201407-018The text was written only in Japanese.

随分と前のこと、どこの路線だったか失念したが、電車のアナウンスが面白くて話題になった車掌さんがいたと記憶している。テレビで取り上げられたり、webの記事になったりと、短い時間であったがちょっとしたネタのようになっていた。ここ横浜でも、話題にこそならなかったが、デジタルな車掌さんがいて、その電車にあたるとちょっと楽しみになっていた。特にアナウンスが面白いわけでもなく、単に話し方がデジタル音声のように聞こえるだけなのだが、そのデジタルぶりは、デジタルではこうは出来ないだろうというレベルで、ほとんど抑揚もリズムもない徹底のしかたであった。恐らくは、意識してではなく、自然にそうなっていたのだろう。

どこの国にも名物車掌さんはいるらしく、お堅いフランスの国鉄SNCFも例外ではない。その車掌さんは、もったいぶった言い方でマダム・マドモアゼル・エ・ムッシューと始めた。英語で言えば、Ladies and Gentlemen, Boys and Girlsに近いか。フランスでは、たとえ未婚の女性と思ってもマドモアゼルとは言わない。大人の女性としてマダムと呼びかける。だから、マドモアゼルを入れた言い方は、丁寧であると同時にBoys and Girlsを追加した言い方にも似ている。車掌さんの名前は、フランソワ。自分で名乗っているので間違いない。この車掌さん、話の途中で何度でもこのマダム・マドモアゼル・エ・ムッシューと呼びかける。何かを伝えるたびに「ご乗車の皆様」というわけである。いちいちもったいぶってゆったりと話をしながら、次第に自分の世界に乗客を巻き込んで行くのだ。停車駅をひとつひとつ丁寧に読み上げ、食堂車の案内を事務的というよりプレゼンテーションする。雑誌をめくりiPhoneでメールを打ちながら、アナウンスなど聞いてもいなかった乗客が順番に顔を上げ始める。そしていつの間にかクスクス笑いが聞こえ始める。どこかの航空会社が、法律で決められた安全のための説明を誰も聞いちゃいないというので始めた出来の良いビデオというのがあったが、フランソワは話術だけで注目させるのだ。

「ご乗車の皆様、次に停車するのはマッシーでございます。」「ご乗車の皆様、本列車には食堂車がございます。食堂車では軽食に加え、香り豊かなコーヒーをご用意して、皆様のお越しを心よりお待ち申し上げております。」「ご乗車の皆様、ご不明な点がございましたら…」

TGVではなく、ゆりかもめのような都市型交通(CDGVAL)
TGVではなく、ゆりかもめのような都市型交通(CDGVAL)

そんな調子で話は続く。車内では携帯電話をマナーモードになどと単純には言わない。マナーモード(英語ならサイレントモード)と言う部分は、「お席では、サイレントモードに」と言いながら、まるで他の人に聞こえてはまずいとコソコソ話でもするように小声になる。ここまでくれば、大抵の乗客はアナウンスなどこれっぽっちも聴いていない風を装いながらもしっかりと耳をそばだてているはずである。そしてクスクス笑いが始まるのだ。

このアナウンス、しっかり最後まで手抜きはない。

「ご乗車の皆様、ご不明な点がございましたら、遠慮なくお声をお掛け下さい。もし、フランス語に不案内でしたら車掌にご相談ください。もし、フランソワとちょっと話してみたいということでしたら、ご遠慮なくお声をお掛け下さい。5分程度でしたらお相手になります。では、良いご旅行を。」

 

Cross Cultural

切符

201401-061This article was written only in Japanese.

普段の会話の中で、切符という言葉をあまり使わなくなったような気がしている。思い出そうと思っても、切符という単語を使った文章すら出てこない。もちろん、日常会話においてという意味であって、切符が死語というわけではない。切符を買うと表現することに違和感はない。それでも、日常会話となるとどうだろう。切符という単語を使う機会などほとんど無いような気がするのである。

横浜から鎌倉に向かうのに切符を買う必要はない。PASMOをかざすだけで改札を抜け、そこに切符を買うから待っててといった会話は出てこない。大阪に行くならどうか。おそらく、指定券とか言うのだろう。横浜の港周辺をつなぐシーバスに乗るなら買うのはチケットだ。映画だろうがコンサートだろうが、買うのはチケットであって、切符ではない。

そんな事を考えていたら、ふと気がついた。相変わらず、仕事の言葉としては切符は生きているのではないかと。劇場でチケットを切り取る仕事は、相変わらず「切符もぎ」と言いそうだ。Webで探せば、切符もぎのバイトも出てこないわけではない。だがそれも長くはないのかも知れない。電子的なチケットの利用も増えているから、そのうち「切符もぎ」の仕事は無くなって、「切符をもぎる」という表現も意味の難しい語句になるのだろう。あるいは、切符は丁寧な表現や文語として残るのか。

実は、切符という言葉のある言い方を考えていて、別にひとつ思いついたものがある。警察に止められて切符を切られたという言い方である。切符が普通に使われているかどうか分からないが、少なくともチケットとは言い換えなさそうだ。寧ろ、反則切符は何故「切符」なのかという疑問が湧いてくる。切符には引き換え券的ニュアンスがあるから反則切符なのだとすると、なにやら違和感も感じなくもない。

ところで、交通違反の反則金の制度は世界中にあるらしいが、その仕組みには意図の違いなのか文化の違いなのか、だいぶ異なったものがある。例えば、日本なら反則金に加えて点数が加算される。何ポイント貯めると免許停止とこちらも何やら不思議な感覚だが、多くの国では罰金だけだそうだ 。その一方で、反則金の払込は遅延しても、多少高い利率の遅延金が発生するだけである。これがフランスだと、最初の支払い期限は2週間と日本より長いが、この2週を過ぎると倍になる。さらに2週を過ぎるとまた倍になる。45ユーロが90ユーロになり、さらに270ユーロになるといった感じである。真面目に対応すれば安く済むが、いい加減にしてるとひどく高くなりますよという意味では、ひとつの面白い方法かもしれない。

201401-060話が脱線したが、長距離列車に改札を作らないヨーロッパと二重に改札を作る日本の違いも興味深い。新幹線の改札は、何故駅の中に二重に作られているのか、どうしても理由が見つからない。原則として車内改札を行わないためとか、在来線との乗り換えで切符を買い直すニーズがあるからとかいろいろな話はあるが、どれもしっくりこない。あえて言うなら、特急券の改札を出入り口で行って車内改札を減らし、コストダウンするというのが一番もっともらしいだろうか。

一方で、TGVには改札がない。黄色い機械に切符を入れて刻印するのが改札であって、ゲートにはなっていない。だから、誰でも切符なしで乗り込むことができる。車内改札はしっかり実施されるからキセル乗車は少ないのだろうと思うが、良心に任せているという側面が大きいのかよくわからない。無人販売など不可能という国なので、良心に任せるというのは矛盾を感じなくもない。とはいえ、不正乗車には滅っぽうきびしい。打鍵を忘れると、高額な罰金が待っている。言い訳など通用しないらしい。必ず、時間に余裕を持って切符に打刻することが重要である。何しろまともに動かない機械なので、延々と切符を入れては抜いて、そのたび紙のカールを延ばしてみたり、いれる角度を微妙に変えてみたりと大変に時間がかかることがある。ただの機械に悪態をついて、隣の機械に鞍替えして見ても、運が悪ければまた同じことである。車掌さんに文句を言えば、「難しいのは分かってる。ルールだからなんとかやってくれ。」とつれない言葉。俺の責任じゃないといった感じだ。理解できないこともない。車掌さんが何かできるわけでもない。時間に余裕を持って打刻するのは旅行者の責任なのだ。ベルが鳴るまで打刻しなかったほうが悪いのだ。車掌さんができることはただひとつ。早めに打刻するようアドバイスして、ウインクしながら見逃すことくらいである。

さて、最後にもうひとつ切符の例文を。「甲子園の切符を手にする」というのは、なんとか会話水準の文章かも知れない。反則切符や罰金の話で終わりたくないので、爽やかな例文を見つけてみた次第である。

Cross Cultural

電車は遅れない

だいたいにおいて、日本人が几帳面すぎるという反応がかえることになるが、電車が遅れるのが当たり前という感覚をフランス人らしいというのは、どう考えてもステレオタイプにすぎないかとも思う。フランスでも電車は遅れないように運営されており、遅れることを当然ととしているわけではない。TGVが1時間も遅れればお詫びもするし、アンケートを配ったりもする。あまりに長時間の遅れともなれば、サンドイッチの弁当が渡されることもあるという。遅れる頻度が日本より高いというだけのことである。

ただし、それでも人が遅れを許容するかどうかは別である。理解していても、あるいは最初から諦めていたとしても、自分が当事者になれば、それを当たり前と考えないのが人である。当事者としてひととおりの苦情を言い、どうにかならないかと尋ね、なす術がないとなれば、「これがこいつらの問題なのだ」とあたり構わずぼやく。そして最後に、これがこの国なのだと理解する。それが実際のところである。

事実、12時間のフライトのあとで1時間半のTGVの遅れをなす術もなく待ち、ようやくのことで乗ってもさらなる長旅が待っていたと愚痴をこぼしてみれば、「それがフランスである」と悟りとも思えるひとことの後には、自分がいかにひどい目にあったかを語る人も多い。諦めているのであって、当然と考えているわけではない。そのあとに、どうして遅れが多いのかを分析する人が多いのもまたフランス人らしいが、それもまたステレオタイプな見方なのだろう。

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