This article was written only in Japanese.
普段の会話の中で、切符という言葉をあまり使わなくなったような気がしている。思い出そうと思っても、切符という単語を使った文章すら出てこない。もちろん、日常会話においてという意味であって、切符が死語というわけではない。切符を買うと表現することに違和感はない。それでも、日常会話となるとどうだろう。切符という単語を使う機会などほとんど無いような気がするのである。
横浜から鎌倉に向かうのに切符を買う必要はない。PASMOをかざすだけで改札を抜け、そこに切符を買うから待っててといった会話は出てこない。大阪に行くならどうか。おそらく、指定券とか言うのだろう。横浜の港周辺をつなぐシーバスに乗るなら買うのはチケットだ。映画だろうがコンサートだろうが、買うのはチケットであって、切符ではない。
そんな事を考えていたら、ふと気がついた。相変わらず、仕事の言葉としては切符は生きているのではないかと。劇場でチケットを切り取る仕事は、相変わらず「切符もぎ」と言いそうだ。Webで探せば、切符もぎのバイトも出てこないわけではない。だがそれも長くはないのかも知れない。電子的なチケットの利用も増えているから、そのうち「切符もぎ」の仕事は無くなって、「切符をもぎる」という表現も意味の難しい語句になるのだろう。あるいは、切符は丁寧な表現や文語として残るのか。
実は、切符という言葉のある言い方を考えていて、別にひとつ思いついたものがある。警察に止められて切符を切られたという言い方である。切符が普通に使われているかどうか分からないが、少なくともチケットとは言い換えなさそうだ。寧ろ、反則切符は何故「切符」なのかという疑問が湧いてくる。切符には引き換え券的ニュアンスがあるから反則切符なのだとすると、なにやら違和感も感じなくもない。
ところで、交通違反の反則金の制度は世界中にあるらしいが、その仕組みには意図の違いなのか文化の違いなのか、だいぶ異なったものがある。例えば、日本なら反則金に加えて点数が加算される。何ポイント貯めると免許停止とこちらも何やら不思議な感覚だが、多くの国では罰金だけだそうだ 。その一方で、反則金の払込は遅延しても、多少高い利率の遅延金が発生するだけである。これがフランスだと、最初の支払い期限は2週間と日本より長いが、この2週を過ぎると倍になる。さらに2週を過ぎるとまた倍になる。45ユーロが90ユーロになり、さらに270ユーロになるといった感じである。真面目に対応すれば安く済むが、いい加減にしてるとひどく高くなりますよという意味では、ひとつの面白い方法かもしれない。
話が脱線したが、長距離列車に改札を作らないヨーロッパと二重に改札を作る日本の違いも興味深い。新幹線の改札は、何故駅の中に二重に作られているのか、どうしても理由が見つからない。原則として車内改札を行わないためとか、在来線との乗り換えで切符を買い直すニーズがあるからとかいろいろな話はあるが、どれもしっくりこない。あえて言うなら、特急券の改札を出入り口で行って車内改札を減らし、コストダウンするというのが一番もっともらしいだろうか。
一方で、TGVには改札がない。黄色い機械に切符を入れて刻印するのが改札であって、ゲートにはなっていない。だから、誰でも切符なしで乗り込むことができる。車内改札はしっかり実施されるからキセル乗車は少ないのだろうと思うが、良心に任せているという側面が大きいのかよくわからない。無人販売など不可能という国なので、良心に任せるというのは矛盾を感じなくもない。とはいえ、不正乗車には滅っぽうきびしい。打鍵を忘れると、高額な罰金が待っている。言い訳など通用しないらしい。必ず、時間に余裕を持って切符に打刻することが重要である。何しろまともに動かない機械なので、延々と切符を入れては抜いて、そのたび紙のカールを延ばしてみたり、いれる角度を微妙に変えてみたりと大変に時間がかかることがある。ただの機械に悪態をついて、隣の機械に鞍替えして見ても、運が悪ければまた同じことである。車掌さんに文句を言えば、「難しいのは分かってる。ルールだからなんとかやってくれ。」とつれない言葉。俺の責任じゃないといった感じだ。理解できないこともない。車掌さんが何かできるわけでもない。時間に余裕を持って打刻するのは旅行者の責任なのだ。ベルが鳴るまで打刻しなかったほうが悪いのだ。車掌さんができることはただひとつ。早めに打刻するようアドバイスして、ウインクしながら見逃すことくらいである。
さて、最後にもうひとつ切符の例文を。「甲子園の切符を手にする」というのは、なんとか会話水準の文章かも知れない。反則切符や罰金の話で終わりたくないので、爽やかな例文を見つけてみた次第である。