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(Floral) Friday Fragments #270


 帰国していつの間にか4年が経過した。帰国直後は、日本を離れて季節感を忘れていたかなと思い込んでいたが、やっぱりここ数年の気候変動が意外に大きいのかなとも感じている。冬はもちろん平年通り寒い日も多かったが、それでも全体として見ればかなりの暖冬だった気がするし、桜も平年通りに咲いたが、花の順番が以前と違ったような気もしている。
 それでも、多少のずれがあっても、季節になればバラも咲くし、ジャスミンの香りも漂うから、気候変動なんて大袈裟に見すぎているのかもしれない。あまりにも目まぐるしく動く世界に、惑わされているだけなのか。そろそろ落ち着いた何もない時代に戻りたい。

 まもなくゴールデンウィーク。このBlogも多少変則になります。不在の時も予約投稿で何かしらポストしようとは思いますが、ご理解ください。
 どこか遠くに出かける予定があるわけではありません。正直、混雑の中を出かける元気もなくなりつつあります。それでも小さな用事はそこそこあって、いつもの何もない日々とはちょっとルーチンが違います。不思議なもので、そうしたちょっとした違いが予定を狂わせます。そんな、小さな歯車の噛み合わせの違いだと思っていただければ幸いです。

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(Floral) Friday Fragments #269


 春の雨に舞い散る真紅の花弁に思わず足を止めたとき、不思議と自分はもう若くないことを実感したことは、素直に告白しなければならない。
 とっくに頭の中で理性が分かっていたことだろうと煮え切らない自分を責めるのだが、どこか遠い高みから客観的に自分を見る目と、その視線から逃れようとしている自分とがいて、幾つになっても若いふりをしたくなるということは止められないのだ。

 若い頃はそんな年寄りを見てみっともないと思ったりもしたが、あるときふと、自分もそのみっともない側になったのだと気づいたのだった。それは自然な感情によるものなのだろう。どこかで年をとりたくないと言う気持ちがあって、それ自体は、年齢を重ねることだって悪くないと言う気持ちと相反するものでもない。むしろ、同時に発生する感情でもあるのだ。
 だって、若い頃には年をとった自分なんて想像できないのだから、その異なる二つの気持ちを感じることなんてできるはずもないではないか。ようやく、それを理解できるようになったというだけのこと。

 落ちてなお、濡れたアスファルトの上で輝く花弁と、それをどこからか見ている花頭と、やがて朽ちて茶色になりつつある花弁と、我関せずの新緑と。一体どれが本当の姿なのか。そんなことを考えた刹那だった。

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(Floral) Friday Fragments #268


 椿は、死者の花木である。一部の地域では椿を葬送に用いる習慣があるそうだが、古椿にはいくつもの死者の言い伝えもある。どうしてこうも死と結びつけられるのか。

 若い頃を振り返れば、椿の花を美しいと感じたこともなく、ただ雨にぬれて汚らしくうなだれ、やがて地面に落ちて朽ちていくイメージばかりがあった。正直に言えば、サザンカと椿の区別もなかった若い頃に、そこまで思い描けるものがあったかどうか怪しい。それでも、時を過ごして記憶が積み重なった今、あの朽ちて茶色になった花を美しいと感じられるようになったのは、ある程度年齢が上がって少しだけ死が近くに感じられる年齢になってからという気はしている。

 資生堂のイメージが椿なのは、幅広い年齢層に訴えるためなのか、それともかつては広く美しいイメージがあったのか、興味があって資生堂のサイトにあたってみたら、「水を張ったガラスの器の中に椿の花弁と葉を浮かべ、ただようその様」とある。なるほど、資生堂らしい美しいイメージである。

 病院のお見舞いに椿を持って行ってはいけないのは、花の終わりに首がぽたりと落ちるからといった説明は、後からつけられた説明であって、よくある不思議マナーと同じだというのは説得力がある。花椿がぽたりと落ちて水に浮く様は、伝統的な日本の美でもある。決して不吉なイメージはない。

 ただ、作りが大きく見方によっては派手で鮮烈な椿の赤が、地に落ちて真っ赤に大地を染めるその風景は、確かにどこか強烈なイメージを残す。そこには、今時のカワイイ風景とは一線を画すものがある。だからこそ、旅人に息を吹きかけて蜂へと姿を変えさせ、花に吸い寄せられると蜂と共に大地に落ちる古椿の話(この話は言い伝えかどうか怪しい)があったりするのかもしれない。

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(Floral) Friday Fragments #267


 当たり前のように至る所に咲くオオイヌノフグリの名前が話題になることはあっても、この花が帰化植物であることは話題にならない。そう書く自分もすっかり日本の植物だと思い込んでいた。何と言っても「大犬の陰嚢」である。そんな名前が外来種の帰化植物に付いているとは思いもしなかったし、あまりに小さな花を見ても、持ち込まれるような植物にも見えなかったからである。

 調べてみれば、そもそも大きな犬のフグリではなく、イヌノフグリに似た少し大きめの花が咲くから大きなイヌノフグリなのだそうだ。直径1cmにも満たないのに、大きいからとはどういうことなのかとさらに呆れる。しかも、イヌノフグリの名前の由来は、実が犬の陰嚢に似ているからだそうで、オオイヌノフグリの実は犬の陰嚢には似ていない。何とハート型である。

 と言うわけで、ハート型の実をつけるにも関わらず、犬の陰嚢に似た実をつける花に似ていて、その大きさがその似ている花より大きいからオオイヌノフグリと呼ばれているのだから、踏んだり蹴ったりなのかもしれない。そもそも犬にだって失礼だ。後ろから見たら、フグリの形はヒトもイヌもさして変わりはしない。むしろ、古語を使って奥ゆかしく表現しているのだから、それはそれでよしとすべきなのだろう。

 救いなのは、小さな淡いブルーの花がネモフィラに似て、案外人気だということかもしれない。見た目だけだが、小さなネモフィラなら、ヒメネモフィラと言う名前だって良さそうだ。それでもすっかり定着して愛されるオオイヌノフグリと言う名前を変えて欲しくないひとの方が多そうだ。帰化植物ではあるが、それだけ愛されている植物でもある。

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(Floral) Friday Fragments #266


 今年は横浜公園にチューリップを見に行こうと思っていた。過去形なのは、もうほとんど諦めかけているからだ。
 BASEGATE関内横浜なる施設がオープンして、駅周辺が大変な混雑となっているらしい。最近は少し寂しくなっていたところもあったので、それはそれで嬉しいのだが、のんびりしたくて行くのであって、人があふれる今は少し時間を置きたい。時間を置くということは、チューリップは終わってしまう。
 ベイスターズ戦がある時はもちろんこれまでも混んでいた。試合があるのに空いている横浜公園なんて見たくない。でも、試合がない時は市民の憩いの場でもある。ふらりと立ち寄り、日本大通りでも観光客気分で歩いて、横浜らしい空気を吸う。それもまた魅力なのだ。
 きっと少しすれば開業当初の混雑は落ち着くのだろう。そしたらBASEGATEも良いだろうし、伊勢佐木町を散歩しても良い。来年のチューリップの季節はきっと混雑も落ち着いている。そこそこ混雑はしていても、東京のような雑多な混雑まではいかないというのが横浜の魅力。それを待つしかない。