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(Floral) Friday Fragments #239

 
 数日前に予定外に転がり込んだ和定食のチェーン店のことをすっかり忘れていた。だから、遅れて届いたカード利用明細に “OOTOYA” とあった時には、見知らぬ国でカードが使われたのかと少々焦った。どう見たって「ウートゥヤ」である。慌てて詳細を確認しようとして我にかえる。ああ、大戸屋さんだ。

 正直言って、ローマ字と英語の混在はいただけない。いや、明細は日本語の中にローマ字があったのだから、不平を言うような話ではない。日本語の中に見慣れない文字列があったからパニックになったと言うところは多少はあるが、明細はちゃんと日本語の中にローマ字表記と一貫している。英語表記の別な明細を見た後で “OOTOYA” を見たから頭が勝手に英語だと認識しただけである。頭硬いなあなんて言われそうな話ではある。

 カード会社の大手はVISAもMasterもアメリカの会社だから、一次データベースはきっと英文であるに違いない。その英文データにローマ字が入っていて、その後、日本のデータベースにある日本語表記データと差し替えるのだろうと勝手に想像している。これがJCBなら全部が日本語なのかもしれない。

 そんなわけで、”OOTOYA” で驚くなと自分に戒めていたのだが、先日また驚かされた。今度は、”-MUSENTA-” と副題でもついているような表記である。ん?ムセンタ?ミューゼンタ?そもそも何?買い物した場所を思い出しながら考えても思いつかない。もう一度明細をじっくり眺めて2行に折り返されていることに気がついた。
 ”-MUSENTA-” ではなく “HO-MUSENTA-”
つまり、「ホ」の副題「ムセンタ」ではなく、”HO-“+”MUSENTA-” =「ホー」+「ムセンター」であって、ホームセンターだった。いつからローマ字の長音(伸ばす音)をハイフンで表すようになったんだ!などと不平を言いながら、またもや自分の頭の硬さにがっかりした。だからローマ字教育を訓令式からヘボン式に変更するのか?なんて考えるのは、単なる頭の硬さの言い訳である。

 そんなわけで、写真と本文とは無関係である。大抵こうした記事は本文と無関係な写真を載せることになっている。写真はイメージです。(で、何の?と聞かないでください)

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(Floral) Friday Fragments #238


人はいさ心も知らずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける

紀貫之,『古今集』春・42

 春の歌であって、季節が正しくないことをまずは書いておかなければならない。よく知られた百人一首の歌だから、見るなり叱られそうである。ここで謳われているのは梅の花だそうだ。

 分かっていて引用しているのには、多少は理由がある。
 過去に”l.t.f.”という花に関する言葉を引用したシリーズをやっていて、その時にボツにしたネタだが、ファイルを整理したら偶然出てきたというのが直接の理由である。ボツにしたネタを再録するのは心苦しいが、読んでみたらちょっと違った感じ方をした。
 最初の五七は「人はいさ心も知らず」だから、「あなたがどう感じているかわからないが」という妙なエクスキューズみたいなものである。少々皮肉っぽい感じもしないではない。
 最後の七七は「花ぞむかしの香ににほひける」と、今の昔も変わらず漂う梅の香を懐かしく楽しんでいるのだろう。個人的にはあまり梅の香りに思い出もなく、沈丁花や金木犀の強烈な香りの方がかえって思い出深い。もっといえば、匂いなどほとんど感じない百日紅や夾竹桃に汗のような匂いが結びついている。夏の終わりになると、少し青臭い百日紅の鮮烈な夏色と湿った汗の匂いが「花ぞむかしの香」なのだ。

 さて、写真は白いニチニチソウでは?と突っ込まれそうである。その通り、百日紅でも夾竹桃でもない。でも、ニチニチソウは、キョウチクトウ科なのだそうだ。太平洋の島々でレイに使われ、ラオスやインドでもポピュラーなプルメリアもキョウチクトウ科。ニチニチソウが夏の花なのは当然である。

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(Floral) Friday Fragments #237


 最近、誰も彼もが苛立っているように感じられるのは、自分自身が苛立っているからかもしれない。
 いろいろ言いたいこともあるし、困ることも多いのだが、かといってそれを書き連ねたところで何かが変わるわけでもない。言いたいことがあれば、まずは自分が動いた方が良い。だからここには書かずにきた。そもそも自分が苛立っているから周囲に対してその苛立ちを向けているのであって、自分が心地良く過ごしていれば、気にならないのだろうと考える。

 そんなふうに考えるのだが、それでも時々思いを吐き出したくなることもある。
 しばらく日本を離れ、コロナが終わって日本に帰ってみると、挨拶を交わす人も少なくなり、狭い場所で道を譲る人もいなくなっていた。通勤電車で隙間を開けて協力することも少なくなり、道路の右側を自転車が猛スピードで駆け抜ける。信号が変わっても気にせず歩き、バスが滞る。
 知人に気持ちを吐露すると、ひとりはこう説明した。
 コロナで会話しないことが普通になった。コンビニでもレジでの会話がないのは、接触を避けているからだ。電車は隙間を開けて乗るものとなった。だから隣に立たれるのが不快になった。自転車のマナーが悪いのは、コロナとは関係ない。単に電動アシストつきの自転車が普通になっただけだ。
 そう言われてみれば、その通りなのかもしれない。朝、コンビニの店頭で元気よく「おはようございます」と声をかけていた自分は迷惑な存在だったのかもしれない。昔から自転車のマナーは欧米と比較して目に見えて悪かったから、電動になればもっとひどく感じされるのは当然だろう。

 誰もマスクをすることがなくなって、コロナが過去の話となった今、元に戻るだろうと考えるべきではないのだろう。聞けば、挨拶をするのは「うざい」と考える人も少なくないのだそうだ。せっかく挨拶しない世界になったのに、挨拶するのは不愉快だと。ようやく電車が混み合わなくなったのに、また混み合ったからと言って、自分を犠牲にしたくはないと。
 米国でもWokeを否定する動きが支持を得た。日本でも「クソ真面目」は今でも使われる嫌な言葉だ。Wokeであるから面倒だというわけでもないので、単純に気分的な問題だ。では、これが現代社会固有の雰囲気かといえば、そうでもない。80年代の”Hip to be square”の意味は、Square=四角=生真面目なのが、Hip=イケてるという意味であって、反体制的な奴らが真面目になっちゃってというアイロニーだとも言える。

 そんなわけで、イカれた平日も終わりである。そろそろ秋にならないと、いつまで経ってもイライラする来週がまた始まってしまう。

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(Floral) Friday Fragments #236


 どこがFloral?と聞くなかれ。ちゃんとお皿の中に花が入っている。

 ハワイ好きな方ならきっとポキ丼なんだなと分かるのだろうが、実は食べている本人はよく分かっていない。
 普段からほとんど生魚は食べないのだが、なぜかアヒポキとかブルターニュのPlateaux de fruits de mer(海産物盛り合わせ)なら食べないこともない。だから、ハワイアン・レストランに行くと、ここぞとばかりにポキ丼などを食べる。生魚を食べるチャンスなのだ。ただ、問題は、それが何だか分かっていないということである。
 まあ、食材を見れば入っているものも多少は分かるし、きっと日系人がアレンジした現地の料理なんだろうななんて想像もするが、伝統的なものなのか、ジャンクフーみたいなものなのか、普通にレストランにあるものなのか、専門店で食べるものなのか、何が入っていればポキなのか、ちっとも理解していない。いや、そもそもポキって何?
 (個人的には)それで良いのである。困るわけでもない。行ったこともないから想像があっているかどうかさえわからない。少しだけ現地の方には申し訳ないなとは思うのだが、世界中を旅するわけにもいかない。仕事でハワイに用はないし、知り合いもいない。唯一ハワイに立ち寄ったことがあるという知人に聞けば、トランジットで空港に降りただけというし、本当に縁がない。
 結論は、いつも同じ。まあいいか。

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(Floral) Friday Fragments #235


 偶然の一致のことを英語でcoincidence(コインシデンス)と言う。
”What a coincidence!”
は、
「なんという偶然!」
フラ語だとcoïncidence(コアンシダンス)。
« par une heureuse coïncidence »
と言えば、
「幸運な巡り合わせにより」
といった意味になる。要は、たまたま偶然に一致した(符合した)事実のことであって、有名なものに、ノルマンディー上陸作戦の暗号が解答になったクロスワードというのがある。

 そのような大袈裟な(大ごとな)事ではなくても、日常の中にはたくさんの偶然の一致というのがある。
 その昔、ロサンジェルス郊外の大きなホテルに泊まり、巨大なホールラウンジの隅で軽い食事をしていた時のことである。ダウンライトが輝き、賑やかな会話があちこちから聞こえてくる。まだ明るい時間帯だというのにカクテルを傾けるグループもあれば、書類を睨みつけながらビールを飲むサラリーマンもいた。自分は、コーヒーを飲みながらスナックをつまみ、同僚と世間話をしていたのだった。

 そんな中、ウェイターがその巨大なラウンジの中をトレーを片手に走り回っていた。支払いは部屋につけてあるので、特段ウェイターに頼むこともない。ところがである。ウェイターのひとりが大急ぎでまっすぐ自分に向かってくる。なんだろうと思ったら「お電話です」と言う。ありがとうとお礼を言ってウェイターから電話を受け取ると、それはロスに住んでいる知人からの電話だった。会話は簡単に終わり、すぐにウェイターに電話を返したのだが、どうも腑に落ちない。その知人は、どうして私がそのラウンジにいると分かったのか。確かにロスに滞在することは伝えていたが、私がいつどこにいるかなど分かるはずもなかった。しかも、あのウェイターは、どうして私がわかったのか。知人が風貌を伝えたとしても見つかるわけがない。たとえ東洋人の顔立ちだと伝えたところで、ロスには無数の東洋人がいる。

 頭を捻っていると、後ろを通り過ぎた集団に同僚が突然声をかけた。
「おいおい。こんなところで何しているの?」
そう言って、その集団と親しげに話している。聞けば、偶然同じホテルに滞在していた知人だそうだ。偶然だと同僚は言うが、だんだん奇妙な気分になってきた。確かにロスには仕事で滞在していたのであって、似たような仕事をしている知り合いがたまたま同じホテルに泊まることだってありそうではある。でも、その前の電話は偶然などあり得ない。

 結局それ以上は何も起きなかったし、なぜ電話がかかってきたのかもわからないままとなった。

 それから5年ほどして、自分はフランスの地方のホテルに滞在していた。ロスの時とは違う内容だったが、やはり仕事でそこに来ていたのだった。時間は夜の10時頃だった。
 ホテルのレセプションで話をしていると、奥のエレベーターから出てきたのは、かつて仕事を一緒にしたことがある知人だった。何もこんなに広い世界なのに、フランスのこんな小さな地方ホテルで出会うなんて、あり得ないだろ。そんな会話をしたと記憶している。

 偶然なんてそんなものなのだろう。

 そう言えば、英語と津軽弁だったかは似ているといったような話もあった気がするが、これも偶然とはいえ面白い。
“Nous avons tant mangé.”(ヌザヴォン・タン・マンジェ)
意味は、「私たちは、たんと食べた」である。英語で言えば ‘so much’ を意味する ‘tant’ は、とてもたくさん=「たんと」である。まあ、正確に言えば、tantの最後のtは、通常は発音しないから、「タン」ではある。

 そんなわけで、冒頭の写真はフランスの古城の庭である。どこか空間が歪んで見えるが、何か操作したわけでもAIで生成した画像でもない。