Bonne journée, Cross Cultural

カウンター・カルチャー・ショック(1)

 さほど時間が経ったわけでもなく、何かを忘れてしまったわけでもない。毎日欠かさず繰り返し飲んでいた甘酸っぱいコーヒーの香りがちょっと苦くなったことを気に留めなくなった程度に、乾いた夏と湿った冬の狭間に転げ落ちたような何年かが、想像していたのとは違う時間軸で流れていただけだ。静まりかえった青と薔薇色の海岸と緑色に塗られた牧場とがどこまでも続くブルターニュは、少し長が過ぎるプロジェクトという時間軸の中のほんの一部を過ごすだけの場所だったはずだった。それが、ちょっとした手違いと気まぐれな人の思いとで国境に壁が広がり、明日と昨日との区別が難しくなったのだ。ただそれだけのこと。その短い年月をブルターニュで過ごす間に、横浜にはブルターニュとはちょっと違った時間が過ぎて、どこかに見えない間隙が出来てしまったのだろう。そういうものだ。
 ただ、その間隙を作ったのが誰かが名付けたパンデミックなのか、それともすっかり不確かな気分で過ごす自分自身なのかは、よくわからない。住み慣れた横浜にただ再び移ってきただけだった筈が、時々宇宙から舞い戻ってきたように異質な空間に変容する瞬間があるわけで、それをカウンター・カルチャー・ショックと言うのか、単に忘れっぽい性格の結果でしかないのか、どうにも判断しようがないのだ。ともあれそれが何であれ、そんなおかしな瞬間が不意に現れることだけは確かである。きっとどこかにある社会への不適合性とか、慣れているはずの社会への甘えとか、そんなものが背景にあるのだろうとは思っている。だから、その違和感のようなものをカウンター・カルチャー・ショックと呼ぶべきではないのかもしれない。
 来週は、そのような違和感の例に触れる予定である。
 なお、カウンター・カルチャー・ショックはリバース・カルチャー・ショックとも言う。微妙にニュアンスは異なるが、書こうとしている内容からはさして違いはない。

次回に続く