Photo, photo panoramique

Yokohama andante 14.8

201708-321

Up to now I posted my several photo themes, Mostly Monochrome Monday, M3m2(Monday Morning Minimalism), l.t.f(little tiny flowers), Floral Friday etc. These series of photos were also a part of my personal photo experiment and it must be a good time to have a short break in order to make my photo stock better.
However, yesterday morning, I found myself thinking how to move on to the new theme which I came up with some months ago then here’s the new one “Yokohama andante” where I will post pictures taken around Yokohama bay.

これまでいくつかのテーマを決めて一連の写真をアップしてきた。先週まで続けてきたM3m2やl.t.fシリーズなど、これらのシリーズは実験的な意味合いもあり、そろそろ次に向けて撮り溜めるにためにもシリーズ物は小休止しても良い頃だろう。ところがである。気づけばどんなふうに新しいシリーズを始めるかふと考えていることに気がついた。そんなわけで新シリーズ「ヨコハマ・アンダンテ」である。

 

Books, Photo

A Book: 写真がもっと好きになる。

This article was written only in Japanese.

ファインダーを覗き込むと案外その風景はつまらない。何となく感じた空間の広がりも、湿った青い空気も、澄んだ窓の向こうの光も、どこか平板な映像となって現れる。ただ、ピントの合っている部分とそれ以外のぼやっとした部分が入り混じっていることで、ようやく頭が空間を理解し何かに納得する。そんなものである。人の目は、見ようとするものすべてにピントを合わせ、見たくないものを視界の遠くに追い遣ろうとするものなのだ。それでもシャッターを切れば、フォーカスを合わせようなどと思わなかった部分までが、時に鷹揚に姿をあらわす。たとえ見たくなかったものであれ容赦ない。

だからレンズを何かに向ける時、ファインダーの隅々まで覗き込み、距離を見計らって絞りを変える。見たいものをしっかりと捉え、余計なものを消し去るために。隅々まで美しい風景ならば絞り込んで全てを写し撮っても良い。時には望遠レンズを使って空間を刈り取ることもあるだろう。遠くのものも近くのものも同じ矩形に封じ込め、見たいものが重なり合ってそこにあるように。

201704-414そうやって考えながら撮った写真を眺めていると、ふと気付くことがある。違っているようでいつも同じ矩形を切り取っていると。違うものにレンズを向けて違う光の中でシャターを押し、数年前と寸分違わぬ写真が残る。良く見れば違っている部分もないではないが、薔薇か葡萄か程度の違いでしかない。そこでようやく思い出すのは、撮りたいものを撮りなさいという誰が言ったか分からないひとことだ。けだし名言。なるほど時々iPhoneのほうがいい写真が撮れるのは、そういうことだ。撮りたいときにいつもの一眼レフがないから仕方なかったiPhoneが、予想外の写真を残す。

「ほぼ日」の連載が元だそうだ。残念ながらその連載を知らないが確かにウェブ風の体裁ではある。とまれ、その内容は写真の世界で迷子になりかけのアマチュア・フォトグラファーにはなかなか参考になる。「基礎的な技術ならもう分かっている。でも、問題はそんなことではない。教科書には書いていない何かが足りない。」そう思いながら読めば案外得るものも多いだろう。技術が分からなくても良い。技術の話はほとんどない。ただ写真に興味があれば手に取る価値はある。
ひとつだけ困った事がある。この手の本の書評にはいい加減な写真は使いにくいのだ。

最近読んだ本

写真がもっと好きになる。(SBクリエイティブ)
菅原 一剛 著

Photo

グルグルボケ

201704-211

まだ何にでも興味を持つことができた小学生の頃、ただひとつ興味がなかったのは、古ぼけた建物の800年もの歴史を思うことだった。修学旅行でいくら説明を聞いたところで、要は壊れかけた木の建物でしかなかった。明治になって再建されたかどうかなど、どうでもよかった。古いことには違いないと、そう思っていた。社会のことなど何もわかっていないくせに全てを知っているつもりになっている小学生には、明治も江戸も鎌倉も同じ昔話でしかなかった。
そんな調子で行った修学旅行で興味を持ったもののひとつが、あまり親しくもないクラスメイトが持ってきたフィルムカメラだった。それは、金属をこれでもかと見せつけるような銀色で、太陽を反射して輝き、レバーを動かせばぎっしりとつまった機械の音がした。きっと親が、遊んでいてどこかで失くしてしまってもいいやと使いふるしたものを与えたものだったに違いない。今からすれば単なる中古のカメラであって、良く言ってもクラシックカメラでしかなかったが、小学生の男の子達からすれば憧れのガジェットであった。もちろん、たったひとつの興味が長続きするはずもなく、他に面白いことがあればすぐに意識はそちらに移ってしまったのだが、その銀色のカメラは、修学旅行から帰って来ても興味を集めることとなった。そのクラスメイトが持って来たプリントには、不思議なものが写っていたのだ。
ひとりひとりが写っている写真を焼増しし、個別に袋に入れて準備をしてくれたのは彼のご両親だっただろう。取り出した丁寧に折りたたまれた紙を開くと、古都を背景にした笑顔から口を開けて眠る呆けた顔まで様々な写真が出て来て、クラスの中には笑い声が広がった。そんな中でひとりが自分の袋を開けて驚いたような声をあげた。皆が覗き込むとそこには肩を組む3人とオレンジ色の不思議な光があった。もう一人が「オレのも」と言い、今度は皆がそちらを覗き込んだ。
「心霊写真じゃん。」
そう言うと悲鳴のような歓声が上がった。
「違うよ。フィルムに光が入ったんだって。」
もちろん、誰もが良くわからなかった。ただ、同じ写真に同じようにオレンジの線が入るのを見て、フィルムに光が入ったのだというどこか科学的な説明に皆が納得したような気がしていた。どこかかっこいい銀色のカメラが、誰もがわからないオレンジ色の光をとらえたのだった。
そんな大騒ぎの様子を黙って見ていたひとりがいた。浮かない顔をした彼の手には、鬱蒼とした木立の前でぽつんと立つ写真があった。大人しい彼には友達が少なかった訳ではなかったが、いつも好んでひとりでいるようなところがあった。だからなのか、その写真も緑色の背景に体をよじるようにして、ひとり立っていた。何の変哲もないその写真が他とひとつ違うのは、彼を中心に背景がグルグルと回転していたことだった。
「やっぱ、心霊写真じゃん。」
その後の事は覚えていない。

そうして10年が経ち、私は大学の研究室で銀色のカメラを手にして友達と冗談を言いあっていた。周囲にはカメラ好きはいなかったし、研究も写真とは全く関係なかったが、カメラを度々手元において普段の風景を撮っていたのだった。カメラはもちろん中古のフィルムカメラであって、父親が使わなくなって捨てるかどうか迷っていたような代物だったが、ビルの屋上で夕陽に照らされる友人や景色を撮っているぶんには、十分だった。
古いレンズが距離と絞りの関係でグルグルと回転したようなボケを描く事を知ったのは、ちょうどその頃だった。いつもそうなる訳ではない。普段は素晴らしく柔らかな澄んだ空気を写し取るレンズが、コントラストのあるざわざわと細かなテクスチャーの背景と特定の距離と特定の絞りとなる時、突然不思議な映像を描く。それは、経験がなければわからない気難しい条件だ。小学生だったあの時もしそれを知っていたならばと思うが、それは今だから思うことであって、その時はそれで十分だったのかもしれない。
大学生の時に手にしたカメラは、「ちょっと貸して」と持ち出された先で知らない間に素晴らしい写真を残した。乾いたペンキの缶にドライバーが刺さっただけのその写真は、まるでアートだった。そして、その写真のペンキの缶は、大学に研究室の中にずっとあった見慣れた景色でもあった。グルグル回る背景の理由も写真を撮るという事の視点も、その頃学んだのだった。

201704-212
グルグルボケ(拡大すると写真の下部に見える)

だいぶ長くなってしまった。最後にこの記事を書いた背景に触れておきたい。
最近、写真関連のウェブサイトを見ていて、絞り値を随分といい加減に書いている記事が多いことに気がついた。いわゆるf値とボケの関係についてである。曰く、解放f値が小さいほどボケが大きい。曰く、解放f値が小さいほど夜に強い。間違ってはいない。だが、実際に写真を撮るとなればいつも正しい訳ではない。分かって書いてはいるのだろうが、f/1.4レンズを使えば美しいボケの写真が撮れる訳ではないし、夜間で暗い事と解放f値が小さな写真に関連性はない。どこかに嘘とか前提とかが含まれている事に触れず、何となく面白く書いているだけのように思えてならない。
そんな事を思っていたら、昔の出来事を思い出したのだった。
美しいボケを得ようとすればカメラと被写体と背景の距離を考えて絞りを変える必要があるし、夜間であろうが絞るべき時には絞る必要がある。シャッター速度の関係でどうにも絞れない場合に絞りに逃げられるとか、ファインダが明るいから暗くてもピントが良く分かるとか、例えばそんなところが解放f値の大きなレンズのメリットであって、それは少し経験すれば分かる。それが写真の面白さだろう。専門家風のキュレーションマガジンも、カメラに詳しいハイアマが集うフォーラムも、もう少し正しい情報を書いて欲しいと思い、このブログのポリシーをはみ出て少し余計な事を書いた。

 

【追記】記事を書きながらウェブを見直していたら、プロのカメラマンの方が面白い事を書いていた。これ以上詳しく書いたら仕事がなくなってしまう、だそうである。もちろん冗談である。経験と理論とセンスのどれもが必要なのは言うまでもない。

Cross Cultural, Photo

The Planet with Photo

201703-321Written only in Japanese.

「地球を守ろう。この地球は、コーヒーの飲める唯一の惑星です。」
といった感じだろうか。RSSフィードでチェックしているブログを見ていたら、そんな言葉が手書きのサインボードに書かれた少しおしゃれなカフェの写真があった。旅先で見つけたら、ひょっとするとつい立ち寄ったかもしれない。念のため原文を書けば、”Save the earth. It’s the only planet with coffee.”である。こういったコピーは、冒頭のように直訳的な表現ではあまりしっくりこない。
「宇宙にたったひとつ、コーヒーの香り芳しいこの地球を大切に。」
これもいまひとつだが、最初の訳よりはまだ良いのではないか。言語にはそれぞれ固有の言い回しがあって、直訳するとしっくりこない場合が多い。逆にそれが新鮮であったりもするから一概に良くないとは言えないが、なかなか言葉は難しい。
これが絵や写真、音楽となると世界共通の様に言われて案外頓着しないが、実はまるで違うらしい。各国の民謡の音階の違いは言うまでもなく、山水画とヨーロッパ中世の絵画には大きな隔たりがある。音楽も絵も好きなだけで専門的な内容に詳しいわけではないから正確には表現できないが、大学でしっかり学ぶと地域差とか文化的な違いとかがわかってきっと面白いに違いない。絵であってもそこにはある種の文法のようなものがあって、誰もが鳥の絵を見て鳥と理解するにもかかわらず、その美意識は違う方向に向いていると感じられる。ただ、言語と絵画や音楽が大きく違うのは、符号化されていない絵画や音楽が世界中で了解できることである。符号化あるいは記号化は、その符号の意味が了解されていなければ通じることはない。
さて、特に注意することなく前段で「写真」と書いたが、この写真が文化の違いにあらわれるかと問えば、その答えはなかなか難しい。歴史が浅いからとも思ったが、19世紀後半にはカラー写真が登場していることを考えると極端に新しいわけでもない。そして誰が撮っても同じになるわけでもない。それでも差異が見つけにくいのは、写されたものが現実の映像をそのまま伝えるからだろう。オンラインで世界中の写真を見るのが当たり前になって、差異が生まれにくいこともあるだろう。そう思いながらフォトシェアリング・サイトの無数の写真を見ていると面白い事に気づかされる。やはり写真には文化の違いがあると。誰か、この直感が正しいかどうか調べてくれないものか。

201703-322