Books, Cross Cultural

A Book: 百年の孤独

201504-211Written only in Japanese.

雨が降る季節にしては遠く列車の鉄を叩く音が響く夜、手元の灯りで指先の傷を眺めていた。まだ少しだけ赤みを帯びたそれは、そのつもりもなくペンキが剥げかかって錆び始めた学校のフェンスを跳び越えるように掴んだ時にできたものだった。遠い金属音は、やがて遠ざかり、指先の傷にはさして興味があるわけでもなかった。ただ、ぼんやりと静まりかえった音を聞きながら、指先の傷を眺めていた。

「どうせ飛び越えられるわけないだろう。」そう、背後から声が聞こえた。だから、少しだけ強くフェンスの端を握りしめたのだった。もちろん、自分の背丈ほどもあるそのフェンスを越えられるはずもないと分かっていた。ただ、飛び越えてみたいと思っていただけだと自分でも分かっていた。いつのまにか、声をかけてきたクラスメートはいなくなって、小さな傷が指先に残った。

線路までは歩いて5分程の距離だった。湿度の高い夜に列車の音が聞こえるのは珍しかった。音は、冬の乾燥した時期にだけ聞こえるものだと思っていた。きまぐれな気流の向きで、どこかに反射して聞こえてくるのだろう。そう思いながらまた赤くなった指先を見た。遠ざかりつつある列車の色はくすんだオレンジで、音を聞くだけでその様子は容易に思い出せた。不規則な敷石とタールのべったりとついた枕木の上を、規則正しい音を立てながらそれはゆっくりと通り過ぎて行くのだった。

風が窓を揺らし、何かをつぶやくような音がした。風向きが少し変わったのか、遠ざかっていった列車の音が急に大きくなったような気がして、ふと机の上に目をやる。壊れたオルゴールのラックアンドピニオン・ギアとノック式ボールペンの中から取り出した小さなバネと音の出なくなったラジオの中の三本足のトランジスタと85個の部品の入った小さな木箱は、以前と同じようにそこにあった。ただ、カタカタと音を立てて。列車はどこかに通り過ぎていった。

それから四半世紀以上の時が過ぎて、木箱は88個の部品とともにどこかになくなっていた。恐らくは捨てたのだろう。中にしまっておいた部品にはいつかどんな価値もなくなって、ただのガラクタになったに違いない。列車が音を立てて走っていた街は、すでに見慣れた風景をかき混ぜたような曖昧な迷路となった。ただ、同じ場所に線路があるだけだった。

何年もそうしてきたように、硬めの椅子に身体を預け、その日の午後思いがけず受け取った白い封筒に手元の明かりでハサミを入れる。大事に収められた固く白い手紙には、明朝体の細い字体で同窓会の案内が印刷されていた。
「同窓会のご案内。桜の咲くあの高台の校舎でともに過ごした皆様へ。」
机の上においた封筒を再び手にし、裏返して差出人の名前を探す。見たことのない差出人の名前。遠く聞こえる警笛音。手紙を丁寧に封筒に戻し、引き出しの奥にしまい込んだ。恐らくは、もう取り出すことはないだろうと思いながら。

 時は少しも流れず、ただ堂々巡りをしているだけ

100年も続く孤独があるのだとすれば、100年続く雨もあるだろう。時が流れ、様々な出来事が過ぎ行き、ひとりでないことを知り、ひとりであることを知る。そんなものだろう。

読みでがある本である。文庫本はいまのところ出ていない。周囲に聞いても読んだという人はいない。読んだことがあっても読んだとは言わない類の本があるとすれば「百年の孤独」はそんな本のひとつなのだ。だから誰に聞いても読んだことがあるとは言わない。読んだことがないと言うことはああっても読んだことがあるとは言わない。恐らく、読んだかどうか確信が持てないのだ。ハードカバー470ページの分厚い本は、確かに手に取ってページ繰って行ったに違いないと感じないではいられない存在感を持っている。だが、読んだかどうかは定かではない。幻想文学と文字にしてしまうことは簡単だが、そうした分類が意味をなさないことは間違いない。もう一度最初から読み返すしかないのだろう。

最近読んだ本

百年の孤独
G ガルシア=マルケス著、鼓 直 訳

 

Books, Cross Cultural

A Book: 南仏プロヴァンスの12か月

201501-405Written only in Japanese.

知られたオーベルジュ(Auberge)でのディナーはフランス人にとっても特別な時間である。ミシュランの星が付いているとなればなおさら、気軽に夕食を済ますつもりで訪ねる場所ではない。工夫を凝らした料理を楽しむのはもちろん、オーナーとの会話や調度品、あるいは気持ちの良い中庭もまた食事の一部である。気取った日本のフレンチレストランよりは、支払う額はずっとリーズナブルだが、決して安くはない。特別な時間を過ごすに値する価格にはそれなりに理由がある。結婚記念日に若かった頃を思い出すのも、知人と新年を楽しく迎えるのも、その場所はそれに値する時を与えてくれる。

そんなディナーであっても、ネクタイとジャケットやロングドレスが必要な場所はほとんどない。他の客人に不快な印象を与えない程度に小綺麗な服であればよい。親しい間柄の誰かと過ごす時間を堅苦しくする必要などない筈、ただ、それに相応しいだけの装いであれば充分だ。

ディナーは8時過ぎから。もし、中庭での食前酒でも予約できたなら、少し早めに風を感じながらの雑談でもしながらテーブルが用意されるのを待つのも良い。席に案内されて配られたメニューを開きつつオーナーの挨拶に耳を傾け、今日はあいにく良い鴨肉が手に入らなかったから他にしてほしいなどと聞けば、かえって食事が楽しみとなる。デザートはどれもおすすめだけど、今日の苺は地元産だからひときわフレッシュですよとなれば、軽いシャーベットでも食べようという30分前の決心は撤回、たっぷりの苺のミルフィーユにせざるを得ない。そうやって特別な時間が始まり、ゆったりと過ぎて行く。そして、そのゆったりと過ごす時間がもうひとつの魅力でもある。弾む会話も、親しい間柄の優しい沈黙もその一部であり、馬車がかぼちゃに変わる頃、ようやく特別な時間は終わりを告げる。

ゆったりとした時間は、忙しいことに慣れきった人間に豊かなひとときを思い出させる一方で、時に苛立ちの感情をもひきおこす。勿体ぶった説明、なかなか現れない御目当ての皿、そもそも時間になっても現れない友人。約束の時間通りにディナーが始まるべきだなんて誰が決めたんだと言わんばかりの当たり前の遅刻は分かっていても、空腹をこらえて出てきた皿と格闘する気満々だから、もっと早く来いとでも言いたくなる。8時に予約したからねの意味は、8時過ぎくらいに行くからねであって、テーブルにつくのは8時半という程度でしかない。そんなものなのだ。7:58発の電車が30秒遅れたという時間スケールでは断じてない。

201501-403そして気がつくのだ。分刻みで動く必要がどこにあるのかと。仕事の打ち合わせが遅れるという話なら、人それぞれの価値観もあるだろう。忙しいのに自分の時間をどうしてくれるのかと不平を言う気持ちも分からないではない。でも、レストランで素晴らしい時間を過ごそうというのに分刻みの時間管理はいらない。

少々困るのは、時々仕事でもゆっくりしている場合である。フライトの搭乗時刻まであと30分だというのに手荷物検査場は長蛇の列。待っても待っても前に進まないなどといったことを度々経験する。いつだったか、もう間に合わないという時間になってやっと検査場が見えてきたと思ったら、案の定、検査ラインがひとつしか開いてなかったということがあった。担当者が何らかの理由で不在となり、たったひとつのチェックラインで数百人をこなしていたのだった。フランス流の時間にすっかり慣れていたから、チェックインもしてるし係官もいないのだから仕方ないなと割り切ったが、まず羽田や成田ではありそうもない。そのうち代わりの係官が到着してラインが動き出したが、その頃には搭乗時間はとっくに過ぎていた。一所懸命仕事してるし、人も足りないのだから仕方ないよねと言わんばかり。新らしく到着した係官とおしゃべりしながら淡々と検査が続く。コイン持ってない?ああそうだった、さっきのコーヒーでお釣りがあった。PCはバッグから出して。はいはい、分かってます。もちろん、列に並ぶ側もブツブツ文句は言っているが、これからの移動時間を思えば大差ないという雰囲気である。そうやって大幅に遅刻して搭乗ゲートに向かうと、聞きなれた日本語が耳に飛び込んで来た。
「お客様!定刻を過ぎております。お急ぎください。」
やれやれ。時間に追われた日本がパリまで迎えに来た。

We have always found that New Year’s Eve, with its eleventh-hour excesses and doomed resolutions, is a dismal occasion for all the forced jollity and midnight toasts and kisses. And so, when we heard that over the village of Lacoste, a few miles away, the proprietor of Le Simiane was offering a six-course lunch with pink champagne to his amiable clientele, it seemed like a much more cheerful way to start the next twelve months.

大晦日の夜となれば、最後の土壇場の大騒ぎと最早逃げられない誓いとで無理にでも陽気に振る舞い、深夜の乾杯とキスの憂鬱な時を過ごすのだといつも気付かされる。だから、ここから僅か数マイルのラコストの村にあるルシミアンのオーナーが懇意の顧客に6皿のコース料理とピンクシャンパンのランチを出すと聞いた時は、これからの12か月を始めるにはなんとも素敵な方法だと思ったのだった。(tagnoue訳)

ピーターメイルの南仏プロバンスの12か月はこんな一節から始まる。ゆったりと時の過ぎるどうという事のないフランス南部の田舎は、同時に誰もが一度は住みたくなる美しい田舎であり、実際に住むには少々面倒な田舎でもある。ラベンダー(lavande)の青、輝くオリーブオイル(huile d’olive)の香り、白く濁ったパスティス(pastis)の焼けるようなのどごし。魅力的な文化と愛すべき困った人たち。あとは、いつ行くか?それを決めるだけという気になってくる。

最近読んだ本

南仏プロヴァンスの12か月
ピーター・メイル 著、池 央耿 訳

 

Books

A Book: 観光


201411-520Written only in Japanese.

強い日差しに瞬くように輝く海の深み、雨上がりに落ち着きを取り戻した茶色の大地、空気を満たす熱狂する人々の声、アスファルトに反射するむき出しのエンジン音、食事の匂い、エネルギーに溢れた街と静寂の夜。ありふれた風景が言葉の断片に切り取られ、記憶の風景と重ねあわせられる時、その風景を美しくすることのひとつは、その味が苦くとも切なさである。

「明日はあるのかな。」 「そりゃ、あるだろう。今日も終わらなかったのだから。」

むろん、明日はある。明日は必ずやってくる。いつものように、いつもの楽しさと切なさと情熱と諦めの間に明日はある。どんな明日であれ、それは容赦なくやってくる。眠りについても今日が終わりそうにない時でも、変わることなく、まるで気づかれないようにそっと歩いてくるかのようにやって来る。目覚まし時計の音に慌てる朝、急に冷たくなった晩秋の空気に重い体を引き摺り出す朝、纏わりつく夏の湿気が思い出せなくなった朝、そんな朝もあれば、軽やかな日差しに目覚める朝もある。だが、もう明日になろうというのに、遠くサイレンが聞こえ続ける終わらい夜もある。

「いつまで続けるというのか。もう止めたら?自分のために。」

そう思いながら止めることが出来ない一日。止めてしまったら何もかもが終わってしまいそうな一日が始まり、自分ではどうしようもなく動き出したその日が過ぎて行く。強烈な日差しに目を細め、見えなくなる今日を感じる一日があり、日差しを避けて隠れるように過ごした一日がある。

この作品は間違いなく美しい。程よい長さの短篇が7つ。強い想いと儚い願いが交錯しながら、日常の時にいかがわしく時に空虚な光景が光を放ち、読み進めることのどこかに負担のようなものを感じ始める頃に作家が手を差し伸べてくれるような、そんな長さの短篇集となっている。作家の記憶の一部であるか想像なのか分からないが、タイの普通の風景も美しい。タイ系アメリカ人作家というから、少なくともなんらかの想いはあるだろう。ただ、緻密な風景描写があるわけでもない。おそらくは、全篇を覆う切なさがその美しさを生み出しているひとつの理由となっているに違いない。だとすれば、なんと悲しいひとの営みか。とはいえ、読むに心配する必要はない。作家の眼は、いつもどこか優しく温かい。

最近読んだ本

観光 (ハヤカワepi文庫)
ラッタウット ラープチャルーンサップ 著、古屋 美登里 訳

 

Books, Cross Cultural

A Book: 里山資本主義

201410-024Written only in Japanese.

狭い意味でのデザイン、あるいは見た目という卑近な言葉までは必要ないが意匠とでも言うべき姿としてのデザインには、好き嫌いはあっても良い悪いはない。ゴッホの絵にも好きな人も嫌いな人もいるように、感性の違いは必ずある。比較的安価なものであればあまり気にしないかも知れないが、車のような安くはない買い物なら、デザインの好き嫌いは気になる人も多いだろう。安価であっても、ペンのような手にするものは、デザインが重要だったりする。ところが、それが良い悪いかと言われれば、感性に対して良い悪いもない。

無論、実際には「良い」デザインがあるという反論があることは分かっている。多くの人が好きなデザインは良いデザインであろうし、誰もが使いやすい工業デザインが優れていることは間違いない。ただ、そこには「商業的に」という説明が見え隠れする。商業的であることが悪いわけではもちろんない。売れることで安価になるかも知れないし、誰もが使いやすくあった方が良い。それでも、どこか、「良い」デザインによって失う何かがあるような気がしてならない。

企業活動にとって、なるべく多くの人に受け入れられることは重要である。たったひとつしか売れないなら受注生産のほうが良い。100個売れるデザインより10000個売れるデザインのほうが良い。そうやっていくとやがて、万人受けするデザインだけが生き残る。どれもが同じようなデザインになり、同じ文法の中で表現を少し変えたものばかりとなる。いつだったか、会話内容から製品の意匠デザインを担当していると思われる人が、ため息を吐きながらこんな話をしているのを聞いたことがある。その人は、新しい形態のデザインを提案しても、良いデザインだが次に考えると言われて受け容れられないというのである。だから、もう少し普通のデザイン案も用意すると。仕事をするなら真っ当な話である。自分の思うところと、より保守的な案のふたつを提示し、意思決定者が選択可能にする。結果は保守的なほうと分かってはいても、考えは提案しなければならない。
「日本車なんてつまらないよね。みんな先っぽが斜めに丸くなってて、どのメーカーもデザイン同じなんだから。」
とその人は言う。そのつまらないデザインは、世界中で売れている。T社にいたっては、世界トップを争っている。そうやって、販売の視点でデザインが決まり、どれもが同じになるのだろう。

都会だろうが、地方都市だろうが、人口数十人の村だろうが、それは等しく存在する。万人受けするデザインであれば、どこでも売れるだろう。特に工業デザインなら地域差は少ない。だから都会の論理が良いということになる。東京は田舎にも持ち込まれ、人は東京を目指す。そうしたことが悪いことでもない。

201410-025ところが、いつも仕事をしているフランス人と話していると、どこか違うような気がしてくる。原点のずれのようなものを感じることがあるのである。彼の地元では大きな青空市が週末に立つ。その市では、生鮮食料品を中心に日用品が売られている。さぞかし新鮮で安いたくさんの種類の野菜でいっぱいなのだろうと思うと、そうでもないと言う。新鮮であるのは間違いない。だが、値段も高いし種類が多いとも言えないのだそうだ。安くて手軽な食料品が欲しいなら、郊外の大型スーパーの方が良いと。それでも彼は、時間があれば市で買う。安全でエネルギーを使わないエコな野菜を選ぶのだ。大型スーパーは、画一化された工場で作ったような野菜を大量に買い付けて運ぶ。手間がかかる有機農法などコストに見合わない。何が使われたかなど分かったものではない。そもそも、そんな物が美味しいはずがない。そんなことらしい。もちろん、季節はずれの食品は手に入らないだろう。いつも必ず市で買うわけにもいかない。時間のある時に会話を楽しみながら美味しそうな食材を探し、ついでにブランチを楽しむということなのだろう。売る側も自信と誇りを持って売っているから、あまりいい加減なことはしない。そんな人々が集まれば、自然と地元の伝統文化を残そうといった話にもなる。パリも良いけど地方も悪くないなと思える場所にもなる。

さて、ここに書いたことと本書は直接関係ない。本書に書かれていることの正否は(そんなものがあればだが)、時代と社会が決めることであって気にする必要はない。そもそもこのブログで書いたことでさえ甚だ怪しい。どこかに勘違いはないかと問われれば、記憶自体が大きな勘違いでしかないのかもしれない。であれば、どうして直接関係のない話を書き連ねたのか。本書を読んだことで思ったこと、思い浮かべたこと、それ自体が本書の価値なのではないかと感じるからである。どこかにひょっとすると同じバックグラウンドがある可能性がありはしないか。そんなことを考えることだって、一つの読み方だろう。

最近読んだ本

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く(角川oneテーマ21)
藻谷 浩介、NHK広島取材班 著

 

Books

A Book: われらの時代

201408-098This article was written only in Japanese.

何もかもどこか不足しているような気がして、慌てて辺りを見廻してみてもそれが何か見つからない。何もかも満ち足りているようでいて、いつも何かが欠けている。そのような時代と時代の隙間に時を過ごし、どこかに逃げ道の言葉を探し続ける。

熱せられた暑い夏の昼下がりの階段。閉め切られたファストフード店のガラスドア。20年続いた喉の渇きは、結局は誰もが何かをせず、誰もが少しだけ便利になっただけの時の隙間だった。

ひとは何かを探している時、饒舌であることより寡黙であるほうが難しい。まして、それが何か分からないなら、沈黙は苦行となる。誰かに聞かずにはいられない。
「何てことはない。それならその角を曲がった先だよ。」そう誰かが言う。たった今、見知らぬ角をひとつ曲がったばかりだというのに。
分かったような顔をして曲がったその角は、振り返ってみてももう分からない角だ。時は、そこに過ごす人よりずっと速く流れ、振り返った角はもうどこかに行ってしまった角だ。やがて記憶が薄れ、その角を曲がったことをようやくシルエットのような曖昧さで思い出す時、それはようやく見知った角となるのだろう。そうして時代にひとつ区切りがつく。

定期航路でもない限り、沖に出る時、船乗りは桟橋を振り返る。置き忘れてしまったものを探すために振り返る。置き忘れたものは使い慣れた道具でも荷物でも言葉でもない。桟橋の風景そのものだ。桟橋の上で見た景色ではなく、桟橋そのものを振り返るのだ。
桟橋の上で見た景色は、やがて意味のない風景へと変わるだけだ。沖に出てやがて戻って来た時、桟橋で釣糸を垂れていた少年も、荷物を忘れたと言い争っていたカップルも、もうそこにはいない。注意深い目で見つけた桟橋の杭に群れる魚も、そこにはいない。桟橋の上で思い出した用事は、それまで忘れていたことが当然であったように、またどこかに忘れ去るのだ。
だから沖から振り返る桟橋は、桟橋でみた風景ではなく、桟橋そのものだ。振り返ったそれは、出港した桟橋ではなく、見知らぬ曲がり角を曲がったばかりのように新しい。先ほどまでいた場所は、もはや過去の記憶のように消え去り、ただ、港の沈黙がそこにある。その黙りこくった港の景色を見るために、桟橋を振り返らなければならない。その風景こそが沖から帰る時に探す風景なのだから。

急な雨に急いで開いた傘。傘の影にすれ違ったことに気づかない邂逅。恐らくは二度とない出会いは、誰もが気に留めない出会いでしかない。

人それぞれの持つ時計が正確に時刻を刻むのとは裏腹に、人それぞれの時は、少し時代と違った進み方をする。だからある時思うことがある。どこかに何かを失くしたと。本当に失くしたものはそれぞれの思う時代なのかも知れないが、誰も答えは教えてくれない。
「何てことはない。それならその角を曲がった先だよ。」

 

簡潔でドライな文体は、ハードボイルドの原点だと言われる。ぶつ切りの短文が続けざまに解き放たれ、多くの渇いた石ころが集まって、感傷を嫌う風景を構成する。何を今更古典に触れるのかなどと思う必要はない。未だ、これほどまでにドライな文体はない。だが、そのドライな文体は、時にたったひとつの形容詞で感傷を表す。長編のほうが恐らくは読まれているのだろうが、研ぎ澄まされた表現力は短編で光る。もし、ヘミングウェイなど今更というなら、短編が良い。断片化した今の時代だからこそ、思うところも多いだろう。

最近読んだ本

われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫)
アーネスト ヘミングウェイ 著、高見 浩 訳