Bonne journée, Cross Cultural

ダイアローグ:電車内の風景2

電車の中でぼんやりしていたり、道を歩いていて前を歩く集団があまりにゆっくりであったりすると、どうしても耳に入ってしまう会話がある。聞いては失礼だと思っても、聞き逃したいない話もあれば、聞きたくないのに聞こえてしまう話もある。

沖縄出身の恐らくは女子大学生と関東出身のその友人が、つり革をつかんでとなり合い、楽しそうにおしゃべりをしている。日常的な話題から、主題は出身地の話になってきた。どうやらSPAMとは何かが関東出身のお友達には分からないらしい。

【沖】あれって豚肉の固まり。気持ち悪いって言う人いるけどおいしいよ。
【関】なんか変な野菜切る調理具あるよね。
【沖】一人暮らしはじめてすぐにお母さんが送ってきた。チャンプルーだって1回しか作った事なかったのに。
【関】へえー、お母さんて、やっぱ沖縄の人なんだね。
【沖】ううん、高知。
【関】えっ?あんた、どうやったら高知の人が沖縄の人と知り合えるのか聞いといたほうがいいわよ。
【沖】…
【関】沖縄って(高校の)修学旅行は東京?
【沖】ううん、北海道。
【関】えっ?全部通り越して北海道行っちゃうわけ?
【沖】ジンギスカン食べた。
【関】じゃあ、小学校だと奈良・京都あたりに行くわけ?
【沖】ううん、小学校に修学旅行があるの?(沖縄は)体験宿泊学習だけだったよ。
【関】えっ?どこでやるわけ?
【沖】渡嘉敷島。
【関】どこよそれ。
…

Cross Cultural

電車は遅れない

だいたいにおいて、日本人が几帳面すぎるという反応がかえることになるが、電車が遅れるのが当たり前という感覚をフランス人らしいというのは、どう考えてもステレオタイプにすぎないかとも思う。フランスでも電車は遅れないように運営されており、遅れることを当然ととしているわけではない。TGVが1時間も遅れればお詫びもするし、アンケートを配ったりもする。あまりに長時間の遅れともなれば、サンドイッチの弁当が渡されることもあるという。遅れる頻度が日本より高いというだけのことである。

ただし、それでも人が遅れを許容するかどうかは別である。理解していても、あるいは最初から諦めていたとしても、自分が当事者になれば、それを当たり前と考えないのが人である。当事者としてひととおりの苦情を言い、どうにかならないかと尋ね、なす術がないとなれば、「これがこいつらの問題なのだ」とあたり構わずぼやく。そして最後に、これがこの国なのだと理解する。それが実際のところである。

事実、12時間のフライトのあとで1時間半のTGVの遅れをなす術もなく待ち、ようやくのことで乗ってもさらなる長旅が待っていたと愚痴をこぼしてみれば、「それがフランスである」と悟りとも思えるひとことの後には、自分がいかにひどい目にあったかを語る人も多い。諦めているのであって、当然と考えているわけではない。そのあとに、どうして遅れが多いのかを分析する人が多いのもまたフランス人らしいが、それもまたステレオタイプな見方なのだろう。

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Bonne journée, Cross Cultural

ダイアローグ:電車内の風景1

 

電車の中でぼんやりしていたり、道を歩いていて前を歩く集団があまりにゆっくりであったりすると、どうしても耳に入ってしまう会話がある。聞いては失礼だと思っても、聞き逃したいない話もあれば、聞きたくないのに聞こえてしまう話もある。

電車の中で聞こえて来たのは、おそらく親しい職場の同僚どうしのたわいもない話である。しばらくして、当たり障りのない話が次第に具体的になってきた。聞き耳をたてるのも気が引けるが、話しているのは直ぐ後ろである。

【A】最近うちの子、すごく表情が出てきた。
【B】あら、かわいいわね。
【A】うん。なんだか、もう直ぐしゃべりそうなくらい。
【B】あはは。
【A】スポンジケーキとか大好きで、良く食べるの。
【B】そうなんだ。
【A】そうそう。この間はケーキ食べてたら掠め取られた。海苔とかもたべるのよ。
【B】あなたと似てるわね。じゃあ、スパゲッティーとか、チーズとか…
【A】えっ?チーズ?私が?
【B】猫よ。
・・・

Bonne journée

時空間の縮退または膨張

太古
その昔、ひととひとはその場所とその時間のみを共有していた。
*1

4000年前
言葉を記録することにより、ひととひとは共有する場所を拡大した。すなわち、それが重い石板に書かれていようと、手紙と馬や船での移動により、その時間の範囲において空間を拡大した。
その後の時代は、空間を広げることに注力し、船を高速化し、車を手に入れ、飛行機を発明した。
*2

100年前
電話により、ひととひとは、共有する場所の拡大を完了した。すなわち、移動の時間に囚われることなく原理的に無限の空間を手に入れた。
しかし、すべての場所の共有が終わったわけではなかった。電話により共有された場所は、目的を持って人がいる場所であって、人そのものではなかった。電話がつなぐ場所は、電話がおかれている場所であって、そこにいつも人がいるわけではなかった。

10年前
携帯電話により、ひととひとは、共有する時間を拡大した。電話の移動は空間の移動となり、点を線として、ひととひとが好きな時間につながることを可能とした。

5年前
Webにより、ひととひとは、共有する時間の幅を拡大し、空間領域の幅を拡大した。すなわち、ひとはひとと、過去に遡って自由な時間を共有することを可能とした。

現在
ソーシャルメディアによって、ひとは、ひとりの個人から社会での時間と空間の共有に移行した。すなわち、人がいるその場所と時間は、物理的な場所と時間から離脱した。これにより、不均一な知の個人の集合によってなる叡智が、個人の知の集合と体系化と並列化し、時空間の密度を高めた。
*3

今後
ひとは、無意識の自己と、場所と時間を共有しようとしている。すなわち、意識を持ってコミュニケーションする状況から、意識することなくコミュニケーションする状況を探そうとしている。
ひとつの不完全ではあるが可能性を持つ手法はLife logである。Life logが共有するものは生活の記録であり、ログである。しかし、本当に共有するものがログであるかどうかは疑わしい。このような仕組みが共有するものは、記録と共にリアルタイムの無意識であり、意識しない知の時空間的な共有なのではないか。意識的に目的を持って作られた知から、無意識に作られた集合知への拡大なのではないか。

*1
社会内のつながりに加えて社会間のつながりが出来て、初めて距離の問題が出てくる。その成立は、想像以上に古いと思われる。

*2
古代ローマでは、最も近いアフリカから情報が伝達されるのに、最短数日であったと考えられている。現実的には、中東からエーゲ海やアドリア海を渡ってイタリアに至る物流は、数週間から数ヶ月というところである。冬の間は自然休戦となった時代では、あまり問題にならなかったのだろう。徐々に技術は進歩したものの、ベネチア黄金期になっても時間がかかった事は間違いない。

*3
「集合知」”Wisdom of the crowd” というものに科学的根拠があるのかどうかは分からない。ただ、多くの個人の知見を集めると、知識として正しいことが多いことが知られている。ただし、集合知は、誘導されやすい。

Cross Cultural

国際会合とネクタイ

201404-027国際会合と言うと、堅苦しくて時に緊迫した応酬が続く、多くの人には縁遠い場のように思われる。スーツとネクタイで身を固め、書類ばさみに無造作にまとめられた資料の束をアタッシュケースから取り出す。聞き慣れない言語でそっと耳打ちがなされ、その日のレストランの相談をしているのか、議題の本質に関わる重大な決断がなされようとしているのか、判別すら出来ない。ただその後に耳打ちされた人物がそっと手を上げたことで、少なくともレストランの相談ではなかったようだと判断するのみである。そして発言から少しだけ間をおいて、その聞き慣れない言語が訛りの強い英語であることを知る。しかし、実際のところ、スズキのムニエルであろうが今後の10年を決定付ける決断であろうが、差して違いは無い。

だが、個人的経験からは、知るかぎりにおいて、普通の国際会合には、このようなまるで映画で見るような堅苦しさも苦渋の決断もない。カジュアルな様子で会議は進んで行く。確かに緊迫した議論が続くこともある。会合の終わりには、決議事項が淡々と列挙され、拍手で賛意を確認もする。参加者や会場運営者への謝意も欠かせない。それがすでに決定済みであってあらためて参加者の賛意を得る必要などなくとも、宮殿を守る衛兵の交代のように、形式が必要である。
しかし決定的に違うのは、議論の場であり、議長の立場である。そこには耳打ちする人物もいなければ、熱心な議論を妨げる通訳もいない。恐らくは権威のある何某かの立場において、冒頭のような会議もあるのだろう。しかしそれは例外的なものだと考える。そして、それほど多くの例外が存在するとも思えない。

その国際会議が何のためのものかと言えば、恐らくは、世界に共通の改善や利益、人類の幸福のためのものであり、会議は参加者に共有された合意を得る場である。大袈裟ではない。参加者はみな真剣である。もちろん、多くは特定の組織の利権を代表もしている。しかし、それ以上に全体の利益が優先される。自分だけが優位な条件であっては世界は動かない。世界のために参加しているのである。少なくともかつて、その会議の状況も知らず、英語も自由に操れない私をある国際会議の場に連れだした先達は、「会社のためではない。世界のために仕事をしているのだ。」と言って憚らなかった。

その会議は、今でもカジュアルさを押し通している。ほぼ一週間の会期中、3回の全体会合と多くの小会合が行われ、全体会合では数百人が、小会合では数十人が議論を交わす。時に些細なことで議論は白熱し、3分席を離れただけで話の趣旨がわからなくなることもある。腕を捲り上げ、熱弁をふるい、思うところを主張することもあれば、人の意見に耳を傾け、静かに同意を示すこともある。しかし、参加者の多くは、今まで自宅でのんびりとポテトチップスを食べながら映画でも見ていたかのようにリラックスしている。椅子を逆さまに使い背もたれに腕を乗せている参加者もいれば、開催地で手に入れたTシャツを着て、メッセンジャーバッグから取り出したノートPCで写真を眺めている参加者もいる。気負いのようなものはほとんどない。参加者のほとんどがエンジニアであることが理由であるかもしれない。ステレオタイプな見方をすれば、技術者は政治と服装には無頓着であるという。しかし、そのような見方は経験上正しいとは思えない。

カジュアルさを印象付ける理由のひとつは、ネクタイをしている参加者がまれだということだろう。はじめて参加する時、同僚は「always casual」とその様子を説明して、やんわりと注意を促した。その意味がなんであるかを理解したのは、会合が始まって2日経ってからだった。会合初日は大会議室いっぱいの参加者の中で、淡々と進むアジェンダの確認や動議をキャッチアップするのに気が抜けず、余裕がなかったこともある。ようやく慣れてきて、周囲を見渡し、参加者がほとんどジャケットさえきていないことに気付いたというところである。議長がネクタイにスーツであったことも気づくのが遅れた原因のひとつだろう。だが、状況を把握したのは翌日であった。

その日、10人程の小さな会議の場所と開始時間をようやく探し出し、小さな会議室を探し当て、会議の目的に従って、何とか会議に参加していると思える状況になって、それは起きた。
その日の会議の目標は、あらかじめ各自が作成した案にしたがって、これから決めていく標準規格の要件をリスト化する事にあった。それぞれが、個々の考えを言い合い、議長がそれらを整理する。ある程度、議論が進んだところで、ひとつの文章が気になった。
「それは、”It should be ~”と言うべきではないか?」
と言うと、隣のドイツ人がすかさず声をあげる。
「お前はネイティブでじゃないのだから、黙ってろ。ネイティブのやつが直す。お前、真面目に参加しているのか?」
さらに隣のイギリス人が重ねる。
「お前もドイツ人だろ。黙ってろ。」
決して悪気はなさそうだが、あまり気持ちの良い状況ではない。そもそも、真面目に参加しているかなどと言われる筋合いはない。結局は、その後はあまり発言しないまま、その日の会議を終えることとなった。

あとから聞くと、ドイツ人の意図は意外なところにあった。ぶっきらぼうな表現は、単にそのドイツ人がネイティブではない事がその理由のひとつであり、小さな会議体が、カジュアルに思うところを言い合う場であるという自然な合意がある事も理由のひとつである。そんな中で、彼は、私が本気で参加しているかどうかを訝しがったのである。
こんな話がある。その会合でネクタイをしめているのは、日本人、韓国人、ニューヨーカー、議長の何れかだけであるという。真偽のほどはわからないが、強ち間違いではない。勿論、参加慣れした日本人は、皆一様にカジュアルな服装をしている。あるひとの見たてによれば、参加者はベストをつくそうと参加しており、長時間に渡る会議に堅苦しい格好で参加しているのは、考えられないのだと言う。パーティーでもなく、権威が求められる場でもないのにネクタイ姿である。営業に来ている可能性が高いということである。つまり、ドイツ人の意図は、ネクタイ姿の見慣れない参加者が、内容ではなく文法に関してコメントするのは、真面目な参加者とも思えない、というところである。
日本人的な感覚から、参加資格が投票権を持たない個人とは言え、国に登録して参加している以上は、きちんとした失礼のない格好で臨むべきだと考えたのが間違いであった。国に登録して参加している以上は、きちんと結果を出すためにベストをつくそうと考えるべきであった。

勿論、権威が求められる全体議長や大きなグループの議長は、それなりの身だしなみが求められる。そう考えるのも、半分は誤りである。ある人によれば、議長は、権威のある立場としてネクタイをしているわけではない。参加者に敬意を表するためにネクタイをしているのだという。仕事や研究の貴重な時間を割いて、合意を得るために遠くから会議に出席しベストをつくす参加者に、敬意を表する事は当然であると。

考えてみれば、フランスのレストランでネクタイを求められるのは、かなりあらたまった高級な店だけである。ミシュランが星をつけるようなレストランでも、ネクタイは要求されない。ビジネスマンがネクタイをしているのも、業種によってはまれである。
一方で、日本においては、多くのビジネスマンがネクタイをあたりまえとし、たとえ暑くても、それをやめるにはクールビズのような、何らかある種の基準が必要である。
そろそろ、ルールやマナーの背景には何らかの精神がある事を思い出し、その精神を考えながら行動を考えても良さそうである。でないと、ネクタイひとつで意思疎通がはかれなくなるかもしれない。相手が、好意をもって日本人の生真面目さを理解しようとしているうちがチャンスである。