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Floral Friday #176


 梅雨に入る前から暑い日々が続いてきたのですっかり季節感がずれているらしい。この写真はフランス北西部で撮ったものだが、6月といえばようやくこんなアイリスが終わる頃のはず。どうして朝からかき氷を買ってるんだ?なんてぼやきもでる。

 夏至は1週間前だから、欧州だと今が一番暑い季節。学校も年度終わりで長い夏休みに入り、毎週のようにあった街のイベントも、夏至の日のLa fête de la musique(音楽の日)を最後にほとんどが終わって静かな日々が戻ってくる。西日が暑いから夜は木陰で冷たいものを飲み、間も無く来るバカンスまでカレンダーを数える日々だ。

 その点、日本は沖縄を除いて梅雨の時期で、東京近郊は通常なら最高気温25度の蒸し暑い日が続く。子供達にとっても夏休みはまだまだ先だし、サラリーマンといえば濡れた服を乾かしながら梅雨明けを思うのがルーチンワークみたいなもので、夏休みのかけらもない。ジリジリとした夏はずっと先の事だ。

 それなのに、今年は梅雨の前に30度の夏が来た。もう夏の花が咲き始め、毎日Tシャツで過ごせるほどの気温である。ようやく雨が多くはなったとはいえ、今頃はどんな花が咲くんだったかななんて考える。まさか梅雨が明けたら連日35度ってことはないよね。

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Floral Friday #175


 今年はバラも紫陽花も早くてもうほとんど終わりかけている。近所の空き地のヒルガオは随分と早く咲き始めたなと思ったら、夏前の草刈りで根こそぎ無くなり、もはや夏の様相を見せ始めた。そんな状況の割には梅雨入りは遅れている。あまり雨量は多くはないもののすっきりと晴れない日も多かった春を思えば、梅雨は前線の動きでしかないイベントにでもなってしまったようだ。

 最近は混雑しているスーパーや病院以外ではマスク姿も見かけなくなって以前の生活が戻ってきたが、あの不思議な時期以降、どういうわけか街中に出かけることが億劫になってきている。人の顔を見に出かけたって何も面白くないと気がついただけなのかも知れないが、どこかで生活が変わってしまったようでもある。無理してでも出歩かないと、何もしないことに慣れてしまうような気がして落ち着かないということもある。ひとり、カメラを抱えて公園の花の写真を撮りに出かけるのは、何かしないと何かが壊れてしまうと感じる根拠のない不安への対応みたいなものだ。その何かが何なのかは答えがないのだから。

 まあ、半分は運動不足解消のために、カメラというウェイトを持って歩いているというのが本音ではある。そのウェイトも重い一眼レフに重いレンズだったものが、軽い小さなミラーレスへと変わり、最近はiPhoneだ。それで十分なのだから仕方ない。たったひとつ都会に住むメリットがあるとすれば、運動不足解消とか言いながら、黙っていても5000歩くらいは歩いてしまうということか。

 やっぱり写真でも撮りに行こう。

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Floral Friday #174


 引き続き鎌倉の写真なのだが、この写真のどこが鎌倉かと考えれば、この雰囲気なのかも知れない。いや、どこで撮ったってこんな写真になるでしょうと冷静な頭が反論はしているが、これが鎌倉なのである。

 今やほとんど観光でしか行かなくなったとはいえ、頭のどこかに観光地とは異なる鎌倉のイメージというものがあって、横浜から短いトンネルを抜けたら全く違う場所に出るものだと思っているらしい。それは観光で行く別な場所とかいうのとは全く違っているものなのであって、日用品を買いに行く近所のスーパーに対する深緑の公園のようなものだし、大船イタトマJrが閉店したというのと横浜のよく行くレストランがなくなってしまったというのが似たようで全然違う、ということでもある。

 先日初めて気がついたのだが、大船駅は、鎌倉市大船と横浜市栄区笠間の間にある。それなのに、大船駅は立派な鎌倉なのだ。だからこの写真も誰がなんと言おうと鎌倉なのだ。そんなイメージが頭の中の鎌倉というエリアを構成している。でも、それって何なのだろう。答えはない。
 

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Floral Friday #173


 向こう側に逗子との境となる山を眺めながら、鎌倉の街は本当に小さいなと思う。鵠沼まで行けばその先は平らだというのに、どういうわけか鎌倉の場所は小さな山がいくつもあって、そのひとつひとつの谷戸に人の住む場所とお寺がひしめいている。
 刀と弓の時代にここを攻めるのは大変だろうなと思うのだが、それは観光客の視点であって、住むとなるとスーパーの場所がむしろ気になるだろう。小さな商店だって散在していないわけでもないが、谷戸の狭い道にそって歩けばそれなりの距離になる。一番開けた若宮大通を挟む両脇の広い土地であっても、少し行けば山があるから道が広いわけではない。その上土地は少し傾いている。狭い道を歩いていれば車も通るし、観光客も好き勝手に歩き回る。そういう自分も今は観光客でしかない。
 生活を邪魔してごめんなさいねとか思いながら歩いてはいるが、つい覗き込んだお店に面白い形の器でもあれば立ち止まってすっかり観光客である。横浜から来ているのだから、たとえ用事があろうとたった30分の距離であろうと、のんびり歩く自分は立派な観光客なのだ。
 由比ヶ浜の先に遠く見える相模湾の隅っこを眺めながら、どこか場違いな場所にでもいるような気分になってそんなことを考えた。
 それでも、住んでいるはずの横浜だっていつだって、どこか異邦人のような気分を感じながら生きてきた。生まれた場所をとっくの昔に離れ、今やその生まれた街に行けば道に迷う。長く住んでいる横浜だって、少しブランクがあれば景色も変わる。そうやって住んできたのが自分なのだ。だから横浜だって異邦の土地でもあるし、鎌倉だって地元みたいなものと思うこともある。
 

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Floral Friday #172


 最近若くないなと思う瞬間のひとつが、美しい花を見て写真を撮る自分に気づいた時だ。普段からある意味工夫も何もない花の写真をただ綺麗だなと思って撮っているわけで、その度に若くないなと思うわけではない。それどころか、インスタだろうがXだろうが、花好きの人がちょっとしたテクニックを駆使して驚くほど美しい花の写真をアップしているのを見れば、そこに年齢など関係ないことがよくわかる。花の写真が年寄りの趣味だなんて、誰が言ったのか。
 若くないなと思うのは、ふと「何故この変わり映えしない写真をまたも撮っているのだ?他に撮りたいものなどいくらでもあるだろうに。」と考える自分に気づいた時である。血気盛んな若者だった頃は、知人が貸したカメラに勝手に残したペンキの空き缶とドライバーだけの写真に嫉妬したではないか?雪上車の黒々とした巨大なタイヤをこれでもかとデフォルメした写真を撮って自己満足したのは誰なのだ?風に揺れる野花の中にカメラを沈めてニヤニヤしながらその瞬間を待っていたではないか?
 どうでも良い話ではある。空き缶の写真は今だって撮っているようなものだ。先日はシロアリに穴だらけにされた放置木材の写真を熱心に撮ろうとしていたし、ある程度写真の撮り方のお作法みたいなものが分かってきた今は、むしろ50mmくらいの標準レンズでどうやったら大きさをデフォルメできるかなんて考えたりもする。
 だから若くないなと思う瞬間は、「だって綺麗なんだから写真に撮りたいだろ?」と言い訳する瞬間なのである。若者は言い訳しないものだ。少なくとも、そういうことになっている。現実はそうじゃないけどね。