Bonne journée, Cross Cultural

街の本屋

201603-111Written only in Japanese

近くのスーパーで思いがけずカセットテープが売られているのを発見した。透明な矩型のプラスチックに封じ込められた磁気テープのリールが、パッケージの隙間から覗いていた。シーケンシャル・アクセスしかできない不便なそれは、デジタル化の中で急速に姿を消したものの、それでも一定の需要があって今でも売られていることは理解していた。だが実際にそれを見ると、正直どこかで不思議な感覚を覚えた。理解することと現実にはギャップがあるということだろう。
同じような感覚を時々街の本屋で感じることがある。住む街や仕事で向かう街の商店街で見かけた小さな書店は、直ぐに売れ筋の本を手にする場であると同時に、新たな発見をする場でもあった。もちろん、今でもそういった側面はある。それどころか、ここ数年すっかり定着した手書きのPOPは楽しみでもある。一方で、買う事を決めた本を買うだけなら、間違いなく大型書店を訪ねるかオンラインで注文する。発売から少し時間が経てば、小さな街の本屋で探す事は難しい。頭では理解しているのだ。どうせ見つからないからオンラインで注文し、そうやってオンラインで買うから街の本屋は少なくなる。結局、以前からの書店で出会う楽しみは、わざわざ大型書店に出向くレジャーのようになって足は遠退くのだと。それでもこうも思う。街の小さな本屋が少なくなって不便だなと。人間とはそんなものなのだろう。
そのうち街の小さな公園までがそうなりはしないかと、少し不安を感じなくもない。

 

Books

A Book: インド夜想曲

201512-411This article was written only in Japanese.

空港の外で疲れきった客を待つタクシーの薄汚れたトランクの重いドアを跳ね上げると、早朝の赤い光に埃がキラキラと反射した。後ろで順番を待つ旅行者が苛立ったように誰かに悪態をつき、別な誰かが笑い声を上げた。わずかな雲の隙間から射していた陽が輝く塵を隠すように急に陰り、風が冷たくなった。ところどころへこんだアルミの旅行カバンを持ち上げ、トランクの奥に押しこむ。空港のタクシー乗り場は、ロビーの華やかさを否定するようにコンクリートの空間を主張していた。
「どこまで?」
「モンパルナスに。」
丸められた小さな紙切れをカバンの横に放り込みながら、そのタクシードライバーは跳ね上げられたトランクのドアに手をかける。
「駅?それともホテル?」
思い出したようにズボンのポケットからiPhoneを取り出し、胸ポケットにしまい直した。疲れているからか、どこかで自分の頭の中を覗き込まれているような妙な感覚がしていた。
「ノボテル。どうして駅かホテルだと?」
「遠距離飛んできて、空港に着いたら大抵はホテルに向かうだろ。」
シートに身体を滑り込ませると、長旅の疲れを背中に感じた。走り出した車のディーゼルエンジンの微かな振動が小声で眠れと告げるが、不思議と脳は眠ろうとはせず、窓の向こうを黒い曇が流れるのを数えるだけだった。ラジオからは古臭いジャズが流れていた。
「直ぐに仕事じゃなくて良かった。たっぷり1時間半はかかる。」
そう言うと、ドライバーは電話を始めた。フランス語は得意でない自分には彼が何を言っているのか分からなかったが、週末の馬鹿騒ぎの話でもしているように、時々下品な笑い声がエンジン音をかき消した。「モンパルナスのノボテルだよ」そう話す部分だけが30分もの電話の中で唯一の分かる部分だった。窓の向こうでは軍の黒い輸送機がふらふらと高度を下げていた。
「あんた、通りの名前分かるか?」
不意にドライバーはミラー越しにこちらに問いかけた。その瞬間、電話での長い世間話の合間にノボテルの場所を知人に訊ね、結局は分からなかったのだと悟った。「分からないよなぁ、今日来たんだから。」ドライバーは答えを待たずにまた電話を始めた。電話が終わったらホテル近くにおすすめのレストランがないか聞こうかと思っていたが、無理な相談のようだった。乗り出した身を再びシートに任せた。
気づいた時には、タクシーは石の街に穿たれたビルの間の谷底を恐ろしい速度で下っている途中だった。視界を無機質な光を放つショーウィンドウと、固く閉ざされたドアと、微かな背徳とがすり抜けた。今日は日曜だった。午前中の静まり返った街を歩く人々など、観光客かあてのない朝を過ごす誰かでしかない。ラジオからは意味の分からないおしゃべりが流れ、ドライバーは変わらず電話をしていた。モンパルナスはもう目の前だった。Bluetoothのヘッドセットにがなり立てながら不意にタクシーを路肩に止めると、ドライバーは手でホテルを指し示し、続いてメーターを指差した。乗客と会話をするより重要な何かが電話の向こうにあるようだった。左の手のひらに右手で何かを書くようにして、ドライバーはレシートがいるかと聞いていた。そうしながら、電話越しに悪態をつくのだった。
「良い一日を。」
旅行カバンをようやく歩道の上に置いた頃には、タクシーは窓から手を上げるドライバーと共に混雑する大通りの中に紛れて行った。その後姿をぼんやりと眺めながら、レストランを聞くのを忘れていることを思い出した。

果たして、旅行文学などと乱暴な分類に当てはめて良いのか分からないが、旅行文学の多くが何かを探す旅を扱うものだとすれば、これはまさしく旅行文学であるに違いない。タブッキはインドの混沌とした風景を背景に、どこまでも曖昧な旅に読者を引き摺り込む。その筆致は、時に推理小説のようでもあり、自省的な翳りを見せたかと思えば、おしゃれな映画の1シーンでもあるように、軽妙な会話に姿を変える。確かに誰かを探す旅ではあるが、その誰かは傍観者である読者には分からない。一人称で語られる文を読む読者には、それが誰かなど分かる必要はないはずだ。話す相手の頭の中まで分かる人間などいない。だが、読者は容赦なくその探索の旅に引き摺り込まれるのだ。しかも、好き好んでそうしている。やがて読者は怪しく思い始める。本当に探している相手はそこにいるのかと。
推理小説風のストーリーに余計な説明はいらない。ただタブッキの筆に身を任せるのが良い。ただ、タブッキに満ち足りた安心感は期待してはならない。それがベストセラーである理由なのだから。

いつものように、前半のテクストは作品への自分なりの返歌である。そしてまた、多少の脚色がないではないが、実体験でもある。

 

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
アントニオ・タブッキ (Antonio Tabucchi) 著、 須賀 敦子 訳

 

Books

A Book: 日の名残り

201509-411This article was written only in Japanese.

沈みゆく一瞬の輝きでしか見えないものがある。傾いた陽が、やがて勢いを忘れブラッドオレンジの絵の具のようになる頃、その柔らかな光の影でしか見えてこない形がある。大抵は、そうした影がようやく見えた頃には、もはや後戻りできない夜が目前にある。輝いだ喧噪も午後の無為な時間も同じように覆い尽くす夜である。夕暮れの光のなかに知っていたはずのシルエットを見て、あたかも初めてそれに気づいたと感じたとしても、そのシルエットを為すそれは以前から間違いなくそこにあったのだ。ただ、日々の忙しさの中に忘れ、無意識に記憶から追い出し、夕暮れの時間になって初めて思い出した。それだけのことなのだ。そうやって気づいた影は、間も無く漆黒に沈んでいく。秋の夕暮れである。

一日を振り返るとか、思い出にひたるとか、あるいは、過去にふと気づくというのは、存外容易なことに違いない。映画や小説で見るフラッシュバックは、そうした容易さがあるから受け入れやすいのだろう。その容易さがゆえに切ない。そういうものである。

とりたてて触れるべき事はない。世界的に知られた英国作家の代表作のひとつである。何が起きるわけでもない。なんども読み返すような深い描写が繰り返されるわけでもない。ある人に会いに旅立つ。ただそんな話である。英国の斜陽と簡単に片付けることもできなくはないが、それ以前にひとの日常と傾きかけた陽の光が周囲を覆う。ただ、最後の1行まで読み切らなければわからない。それだけのことである。

最近読んだ本

日の名残り (ハヤカワepi文庫)
Kazuo Ishiguro 著、土屋 政雄 訳

 

Books

A Book: つめたいよるに

201509-111This article was written only in Japanese.

まだ一日が長くて近くの神社の裏山に忍びこむことが冒険だった頃は、夢と現の境目などと言われても何のことだか想像すらできなかった。捻じ曲がった巨木の根も甲高い生き物の声も、それは確かにそこにあって、それでも誰も知らない秘密の何かだった。裏山に夕暮れの影が忍び込み、どこか寂しくなって自転車を押しながら家路に着くとき、どうしてか少しだけ後ろめたい気分を感じていつも同じ決心をした。裏山に行ったことは黙っていようと。でも、一所懸命そう決心していた筈なのに、翌朝に裏山にはどんな虫がいたのと聞かれ、大きな蝸牛を見つけたんだと報告することはとても自然なことでもあった。どうしてあの場所に行ったことが分かったのだろうと思うのは、ずっと後のことだ。何もかもが自然にそこにあって、不思議に思うことは人と人の間ではなく、自然のなかにこそあったのだ。

しばらくして、そんな冒険の後ろめたさが大きくなり始めた頃、疑り深さが夢と現を分け隔て始める。下草のガサガサという音は小動物なのか吹き抜けた風なのかと考え、やがて、友人の話すことが本心なのかどうかと悩む自分に気づく。そうやって、今自分の見たものさえもが危うく見えてくる。

「そういえばこのペンはパーティで誰かに借りたんだっけ。誰だったかな。」

急にそう思い出して、たった今まで書類を書いていたペンをしげしげと眺め、思い出せずにまた書き始める。そう言えば鞄にペンケースを入れ忘れ、授業中に頼み込んで借りた異国の綺麗なペンを返し忘れたことがあったなどと、違うことを思い出す。そのうちパーティで借りた筈のペンは、授業中に借りたペンへと入れ替わり、そもそもパーティで借りた記憶が勘違いだったように思えてくる。

そんなものなのだろう。たとえそのペンが、確かにパーティで借りたものであったとしても。そして、貸してくれたのが、書類を書くすぐそばでマグカップから紅茶を飲んでいるパートナーであったとしても。

 
今時よく目にする軽量な散文からすれば、適度に密度の濃い描写と軽快なリズムが交じり合った文体は、少し切なく少し優しい日常のシーンを美しく切り取っていく。どこにでもある風景というわけではない。それどころか、実務的な頭がきっとそんなことはあり得ないと囁きかねない風景なのかもしれない。でも、それでいて誰にでもある日常なのだ。だから切なく優しい。

最近読んだ本

つめたいよるに (新潮文庫)
江國 香織 著

Books

A Book: 時間のかかる読書

201508-211This article was written only in Japanese.

やられた。扉を開いて数ページ、少しばかり空いた時間に、そろそろ読もうかなと本棚の一番目立つところに置いておいた文庫本を手にして、軽い気持ちで読み始めたのである。本の扉を開くとは大袈裟な言い回しだが、右から開くのか、左から開くのか、あるいは下からめくるのか、ひょっとするとスクリーンをタップするのか、まあ、そんなことはどうでも良いのだが、ともかく扉を開くというのはちょっとした儀式ではある。そして、その後の10分間は本を読む行為において、極めて重要な時間となる。いきなりその世界に引きずり込まれることもあれば、悶々と考えさせることもある。その10分間に思ったのは、ひとことで言えば、「やられた」なのだ。

そもそも最初から武が悪かった。「時間がかかる読書」という扉が二枚入っていて、これはいったい乱丁だろうかとページをぱらぱらと繰ってみたのだった。もう、その時点で負けは決まっていたようなものだ。表紙の「時間のかかかかかかかかかかかか」というデザインで面白いなどと思っていたら、いつまでたっても勝つことなど出来ない。いや、勝った負けたと言う話ではない。本の扉を開くという重要な最初の儀式でやられたのだ。

007シリーズの映画では、冒頭で本筋とは直接関係しないアクションシーンが入る事になっている。007とはこうしたものですよという挨拶ではない。最終から楽しんでねというサービスである。そもそもエンターテインメントでなくともベストセラー小説の冒頭は1ページ以内に気になる事が起きる事になっているらしい。さもありなん。退屈な始まりでは販売という点では都合が悪い。ちょっと読んでみようかなと手にして開くのは2ページ以内と思った方が良い。我慢して2ページ読んでみたけどつまらない。だから買って面白くなるまで読んでみようなどとは思わない。そう思ってくれるなら、なんと親切な読者であることか。大抵は、つまらないから買わないとなる。

ところがである。まだタイトルしか読んでいないというのに、ページを繰ってしまったのである。正確にいえば、文庫の表紙とタイトルをみただけである。惨敗である。いや、勝ち負けではない。やられたのだ。冒頭の数行を読めばもうやられたことがはっきりとする。

さて、読み方の難しい本である。あえて言うなら横光利一の「機械」の長い長い読者感想文か。明らかに書評ではない。論文のようなものでもない。ただひたすら、ひとりの読者として本を読んでいく。読み込んでいく。であれば、横光利一の「機械」の読者である宮沢章夫の読者である自分は、それについて書いたこの文章の読者に対して何が言えるのか。読み方といった大仰なことなど言えそうにもない。困ったことである。ただひたすら救いなのは、このblogで密かに試みているネタだけは宮沢章夫にやられてなかったことだろうか。実は最初の数ページで先にやられたと思ったのだが、少々違った。素人が出来ることには限界がある。せめてつまらないアイデアの余地くらいは残っていてほしいものである。

最近読んだ本

時間のかかる読書 (河出文庫)
宮沢 章夫 著