Cross Cultural, Photo

Floral Friday #157


 この写真は随分前に撮って没になったもの。奥の蕾にピントがいって、見ていてあまり安心できない。それでも今回ポストしたのは、どことなく薄暗い春の初めの天気が懐かしくなったから。

 横浜に住んでいれば、冬の初めから春の初めまでは、カラッとした晴天が続くと暗黙のうちに考える。もちろん時には雨も降るし、曇り空が続くことだってないわけではないが、冬といえば抜けるような青空のように、ついステレオタイプに見てしまうものである。確かに晴天率は高い時期だが、だからと言って必ず晴天が続くわけでもないことくらい理性では分かっている。でも、どこかで晴天を期待しているのだ。
 フランスに住んでいた頃は、冬といえば毎日小雨だったし、その雨だって晩秋の曇った一日に時折ぱらつく雨と、春の強烈な日差しとあられが交互にくるような雨とではまるで違っていたから、場所だけでなく季節で違っていることなど当たり前だと冷静な頭は考える。天気のことを方程式のように考えたって仕方がないのだろう。
 そんなことを考えていたら、少し薄暗い中に咲く白い花が、ジメジメとした空気の記憶の中に蘇ってきた。

Cross Cultural, Photo

Floral Friday #156


 先週のいつだったかにどこかのSNSにポストした写真だったが、そのタイミングでBlogにはポストできなかったので、こちらにもアップすることにした。
 なんだか今年に入って忙しすぎて、色々なスケジュールが思ったほど管理しきれていないようなのだ。仕事が忙しいなら対処の仕方も知っているつもりだが、プライベートも含めてあまりに多種多様すぎると単純な解決法は通用しない。困ったものである。暇より忙しい方が良いと思っているが(やることがあるのにやらない暇は歓迎)、限度というものがある。
 ということで、今週は手短に。

Cross Cultural, Photo

Floral Friday #155


「ドローボした花植えてうれしいですか」

 花盗人に罪はないとか、花泥棒を窃盗のように裁くなとか、花を盗むことに関する言い方はあるが、この立札は切実である。まるで詩にでもしたようなドローボという誤字の音の響きにすら、ある日異変に気がついた時の困惑した様子も、せっかく植えた花が無くなってしまった悲しさも、ひとまとめに書き込まれているように感じる。盗人には役に立たないロープの向こうでは、新しく植えられた花がフレッシュな輝きを発してはいるが、どこかで寒々としているように感じなくもない。

 花盗人が恋の話ならまだしも、実際にある花を盗むなら、それが犯罪に類することであるのは間違いない。野に咲く花が美しいからひとつ摘んで持ち帰ったとか、垣根の向こう側から道に出ている小枝に咲く花がいい香りを放つからつい手折ったとか、そんなことであれば、犯罪というよりも倫理の話であって、窃盗として裁くべきかどうかは議論が難しい。法は小さな罪を厳格に裁くようには作られていない。手が届くところにある花をつい取ってしまうことまでを必ずしも裁かない。
 それでも、公園に植えた花を抜き取って持ち帰れば、それはどこかで心に冷たく感じる行為であることに異論はないだろう。だからこの立札は寂しく主張するのだ。誤字も含めて、願いを伝えようとするのだ。

Cross Cultural, Photo

Floral Friday #154


 寒さの底となる時期であっても、陽射しさえあれば暖かい。降り注ぐ光に目を細め、間も無くやってくる春の暖かさを思う。柔らかな色にあふれ、土の匂いがし始める季節まで、あとひと月。それまではそんな時期を想像しながら過ごすのが案外幸せというものかもしれない。
 歯科にクリーニングに行ってみればもしかしたら治療が必要かもと言われ、きっと返事があるだろうと思って出したメールには何の返事もなく、ようやく週末だから日差しを浴びようと思えば雨模様。そんなふうに思い通りに行かないことを数えることに慣れてしまうと、折角の束の間の眩しい光の恩恵にも気付けない。だから野暮用で運転しなければならない300kmは、途中にお楽しみの買い物を加えて楽しく過ごそうなんて考えた。
 さあ、光満ち溢れる春がそこまで来ていますよ。

Cross Cultural, Photo

Floral Friday #153


 正月に咲く水仙は、春らしさを最初に感じる花であるとともに、どこか寒さも思う花でもある。冬のまだ弱い日差しに咲く小さな花を見ていたら、小さな蜂が現れた。ここにも春があるのか、まだまだ続く冬に備えて忙しいのか、見ている側の心のうちが透けて見えるような気がして落ち着かない。
 そんなことを考えること自体、どこか自己愛が出ているような気がすると思ったが、そもそも水仙は英語でもナルキッソス(narcissus、英語の発音はナーシサス)であって、湖水に映る自分に恋焦がれた罰として水仙になってしまった自己愛の象徴みたいな存在である。完全に見透かされたらしい。