Bonne journée

とび


 神奈川には案外トビ(とんび、鳶)が多い。特に三浦半島から相模川にかけての地域には多数のトビがいて、神奈川県が注意喚起している。日本で最も身近な猛禽類と言われるトビが、特段危険な鳥であるということではない。もちろん猛禽類なのだから嘴も爪も鋭いし、なかなか大きさもある。翼が当たれば怪我もするだろうし、危険がないというわけでもない。でも、意外に臆病なところもあって、縄張り争いではカラスに負けてしまうこともある。

 注意喚起されているのは、食べ物を奪われて怪我をする可能性があるかららしい。確かに、湘南の海でサンドウィッチを奪われたとか、海の家で買ったばかりのたこ焼きを地面に落とされたとか、なかなか色々聞かされる。頭上高く「ピー ヒョロロロロー」なんて聞こえていたら、食料は隠しておいた方が安全だろう。

 そんなことを言い出したらカラスだって危険だ。トビだけが危険なわけではない。その昔、前から歩いてきた高校生が、手に持っていた菓子パンを後ろからきたカラスに奪われたのをなかなかの迫力で目撃したことがある。まあ、ともかく、なかなかの大きさのあるトビは、当たれば怪我をするレベルであることは間違いない。

 湘南の海が垢抜けた都会の海だとは言っても、周囲には自然も多い。相模湾は豊かで、三浦半島にも鎌倉や逗子にも森は多い。すっかり当たり前になった台湾リスが駆け抜ける。トビだって居そうではある。だが、実は横浜港にもトビはいる。

 写真のトビは大型船が停泊する大桟橋近くで餌を狙っていた。ネズミくらいいるのだろうが、狙いは観光客の撒く餌やポテトだったりするのだろう。湘南のトビと違うのは、すっかり人慣れしていて、手の届きそうな場所をホバリングしているあたりである。近くでホバリングするトビはなかなかの拍力である。迫力はあるが、気の弱いのは変わらない。カモメやハトの餌を奪うのはなかなか叶わない。

 そうした意味では、人間は案外弱いカモなのかも知れない。少なくとも餌を奪い易そうである。しかも、トビを侮ってはいけない。視力は7.0相当だそうだ。10メートルの上空からスマホの文字だって読めそうだ。まあ、トビの視力をどうやって測ったんだという疑問もあるので、あまり数字を気にしても仕方ないのかもしれないが、ともかく視力は良い。かなりの上空からアホな人間を見つけて急降下なんて、日常生活の一部なのだろう。まんまと高校生あたりから手に持っていた食料をまきあげて、奪って行くなど朝飯前なのだ。たとえそれが好みでもないクレープであってもである。
「なんだよ、ストロベリー・クレープかよ。もっとまともなもの食え。」
なんて思っているかどうかは分からない。

Bonne journée

四季桜(shiki-cherry)


Shiki-zakura, literally ‘four-seasons’ cherry blossom in Japanese, is always blooming from October to May, but not in summer at least around Tokyo. It should be too hot. Perhaps, it may bloom in summer in northern Europe. When we say cherry blossom, it blooms at the end of March typically and it is about well-knows ‘Somei-yoshino’ cherry blossom. Everybody is looking forward to seeing it. However my favorite is rather those ‘shiki-zakura’ type of blossoms because it brings a sort of calmness and gentleness.

 四季桜は、文字通り「四季」の桜で、10月から5月まで咲き続けますが、少なくとも東京周辺では夏には咲きません。暑すぎるのでしょう。もしかしたら、北部ヨーロッパでは夏にも咲くのかもしれません。桜といえば、言わずと知れた「ソメイヨシノ」のことを指しますが、むしろ「四季桜」のような花が好みです。穏やかで優しい佇まいではありませんか。

Bonne journée

A light-filled afternoon


It was a bright afternoon, and the gentle spring breeze was still cold, but the warmth of the light, which had gotten a little stronger, was a welcome relief. The thing that was most comforting about returning to Japan from France was the winter sunshine. Weekends in Brittany were not bad at all, as I was constantly worried about rain falling from overcast skies, but I had completely forgotten how warm the sunshine could be. But sometimes I feel nostalgic, remembering the beautiful contrast between the sudden hailstorm and the bright blue sky.

Bonne journée

喰らうということ


 ひとには欲というものがあって、その重要なもののひとつが食するという行為である。それは時には楽しい会話と共に供された食事を楽しむということもあれば、命を繋ぐためにエネルギーを得るということもある。そうした食事をどういう訳か卑しく感じることもないわけではない。時に食べかけのテーブルを見ていると、時々その乱雑さに後ろめたさを感じたりもする。

 きっとそれは、その食するという行為が欲に発するものであって、その欲に対する卑しさをどこかで感じているからであるに違いない。その真偽はわからないが、少なくともそう感じたのである。何らかの食物を喰らうという行為は、貪欲さを曝け出すようで、気恥ずかしいところがあるからなのだろう。

 眠気を感じて寝たいという欲求は、あまり恥ずかしさを感じるものでもない。それが何故か、食事をするとなると、わずかに妙な感覚を伴うことがある。食事は敵に狙われやすい危険な行為だから隠れてするといった解説を見たこともあるが、それと関連するものかどうかはわからない。性欲も危険を伴うから隠れてするもので、そこに欲求と行為のバランスがあるのだという解説を読んだが、分かったようで卑しさとの関係ははっきりしない。

 上の写真は、実は病院食である。少し高級なフランスの病院で、健康な人向けに出した食事だから、病院食にしてはなかなか豪勢ではある。しかも、少したべた後で撮ったので、もうひと品かふた品が皿にのっていたと記憶している。フランスの流儀に従って、ちゃんとデザートもあるし、食事を終えてのんびりしていたらコーヒーのおかわりはどうかと聞かれたくらいだから、病院食というには特殊かもしれない。

 もしかしたら、これがもっと質素だったら食することに欲を感じなかったのかもしれない。検査のために空腹で過ごした午後のひと時の後で、食べかけの皿を見ながら、案外美味しいじゃないかと写真を撮る行為に気恥ずかしさを感じたのかもしれない。ただ、そう思った瞬間から、健康な食事をするという少し前向きな行為が、どこかで遅い昼飯を喰らう気分になったのは間違いない。

 ちなみに、まったく別な場所でまったく別な理由でフランスの病院食を食べたことがあるが、それは昼食ではなく、昼食抜きで簡単な手術をした後で、薬を飲むために供されたものだった。量も少なかったし、乳製品主体の簡素なものだったから、こちらは食事の卑しさみたいな感覚は一切なかった。思っていたのは、「腹減った」だけである。

Bonne journée

抽象


 ピート・モンドリアンの本当の名前は、ピエト・モンドリアンなのだと思っていた。モンドリアンという響きからしたら、ヨーロッパのどこからか移り住んだ移民で、英語の響きに合わせてピートと呼ばれたのだろうと。その推測はあながち外れてはいなかったのだが、本名は、ピーテル・モンドリアーン(Pieter Cornelis Mondriaan)で、オランダ人だそうだ。確かにaanという語尾はオランダ的ではある。
 言わずと知れた抽象画の巨匠で、抽象画というジャンルを作り上げたひとりと言って良いのだろう。少なくとも絵画の拙い知識はそう言っている。
 絵画好きなら誰でも知っているモンドリアンであるが、個人的には(素人の単なる絵画好きなのだから個人的に決まっている)、正直言えば、どことなくテキスタイルのイメージがこびりついて、さほど興味を持たなくなって久しい。現代の基準で見てはいけないとは分かっている。そう分かっていても、イヴ・サン=ローランの作り上げたイメージが強烈すぎるのだ。
 もちろん初期の作品や抽象画への移行期の作品はまるで違う。自然なリンゴの木が、やがて曖昧な空間に漂うさざなみのように画面を揺れ出すのを見ていると、ちょっとワクワクさせられる。

 そんなモンドリアンの作品で、これだけは心惹かれるという作品がブロードウェイ・ブギウギである。抽象化され、もはや元が何だったかもわからないほどの単純な図形と色になった作品の中で、これだけは元の形も色もリアルに想像できる。「あぁ、これがブロードウェイか」と車のクラクションの音まで聞こえてくるのだ。街角にはポスターが貼られ、宣伝用の音楽が流れている。
 きっとこれがモンドリアンの集大成なのだと勝手に想像した。目に見えるものも見えないものも含めて、映像を単純化し続けた先に、具象があったのかもしれないとさえ想像した。美術の専門家でもないからモンドリアンがどう言っていたかも知らないが、単なる美術のファンであれば勝手に想像しても良いという特権もある。だから、それが間違いであったとしても、自分にとってのモンドリアンは、ブロードウェイ・ブギウギに集約される。

 先日、早朝の街を歩いていると、ふと目に止まったドアがあった。そのドアは、東京にあったのであって、モンドリアンとは何も関係ない。おそらくは早朝だから目についたのであって、普段は気づくこともないドアだろう。冬の朝の冷え切った空気の中で凍りつく金属のドア。真っ白だったであろうそのドアは薄汚れ、誰も見向きもしない商店の横で静かに存在していた。
 そのドアについた汚れがモンドリアンに見えてきたのだった。しかも、ドアの横にはアナログのメーターがあり、有機物を思わせる緑色のホースがのぞいている。ひょっとするとメーターの針はそのドアの街のエネルギーのレベルを示し、ホースは時折息を吹き返して動いているのかもしれない。落ちた枯れ葉がカサカサと音をたて、固く閉ざされていると思ったドアは、意外にも鍵がかかっていないように見える。周囲を見渡し、誰もいないことを確かめると、そのドアを開けてみたいという衝動が強くなった。もちろん、そんなことをすれば犯罪になるかもしれないし、開けたら向こう側にその場所の所有者がいて、こちらを睨んでいるかもしれなかった。常識に囚われていることを幸いに、ドアを開けずに済んだのは、ラッキーだったかもしれない。
(写真の下に続く)


 このドアを見つけ、足を止め、しばらく眺めていると、ふと妙な考えが湧いてきた。もしかしたら突き詰めて作り上げる抽象と、偶然生まれてくる紋様の間には、差異はないのではないかと。意図したわけではないであろうオレンジ色のマグネットが、太陽の控えめな傾きを表現しているとしても、それを誰も否定できないであろう。

 バナーの写真は、自然に落ちた枯れ葉などではなく、誰かが散りばめた赤い実と枝なのではないかと思い始めると、急にそれを否定できなくなるような気がするのである。そこには時間が重層化され、たたみ込まれている。四半世紀前にもこの赤い実を落とす木がそこにあって、そこを通りかかった子供達が習ったばかりのカタカナのキを作り、その時間が焼き込まれた地面を、毎年赤い実が覆い尽くす。そうやって生まれたテクスチャは、もはやテクスチャなどではなく、子供達の楽しげな歓声を写し込んだ抽象なのではないか。
 モンドリアンのドアだって、そこで行われている毎日の規則正しい商売と、日々のランダムに揺れ動く予期せぬ時間軸が焼き付けられているのかもしれない。そうやって生まれた図形がたまたまモンドリアンの表現のように見えたとしても、何も不思議はない。

 考えすぎだよ。

 その通り。考えすぎが面白い。