Cross Cultural

教会の鐘とiPhone

201406-006streetThe text was written only in Japanese.

教会の鐘が朝を告げた。裏庭では赤い薔薇が自分自身を支えきれずに頭をその横のベンチにもたれかけ、小さな表通りでは、ショートコートの襟を立て小さなパンの袋を抱えたサラリーマンが道を急いでいる。またポツポツと雨が降り始めていた。6月の北フランスはまだ初夏からは遠い。

サマータイムは、夜10時を過ぎても明るい。仕事を終えた後もつい外出したくなるそんな夕べとなる。もう、ひどく寒いという季節ではないが、半袖一枚で過ごせるものでもない。だから今日は何を着ようかと少し悩む。日中の強い日差しを考えて半袖で外出しようかと思っても、朝夕の冷たい風を思い、結局はその上に一枚羽織ることに決める。ショートコートか雨に当たっても染み込みにくいジャンパーが簡単だろう。一日の中にあらゆる天気があるのだから。朝、窓の向こうには色の消え失せた雲が覆い尽くすように広がり、アメリカ製の天気予報アプリは一日 overcast と告げているが、恐らく間もなく晴れてくる。白く柔らかな雲がぽつりぽつりと浮かび、そよ風が首の周りを抜けて行く爽やかな午前が始まるのだ。その頃には、件の天気予報アプリも初心を忘れてclearとかpartly cloudyとか表示するに違いない。やがて夕方には再び雨となって、気温はあっという間に下がっていく。であれば天気予報など要らないではないか。

 

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横浜、さして重要とも思えない仕事から遅く帰宅する夜。先月末のヨーロッパのニュースサイトは、すっかり欧州議会選挙とウクライナ情勢一色という状況だった。そうでなければサッカーの結果。日本からの距離を感じなくもないが、すぐそこにあるいつもの日常でもある。直ちに影響が現れるものでもないだろうが、選挙結果を見ていると右傾化は世界的な状況のようでもあって、時代の変化にどことなく不安を感じなくもない。そう考えながらも、それは同時に他人事でもある。買い物をしながらふと一度雨に洗われた路面に目を遣る。雨はすっかり乾いていても、汚れの落ちた路面は時折輝きを見せた。

横浜では誰もが首を垂れて、後生大事に小さな呪文の書かれた光る箱を抱え、何事かつぶやくようにそれを覗き込む。電車の妙に丁寧な英語のアナウンス。帰りを急ぐシワだらけのワイシャツ。咲き始めた紫陽花の青にあたるLEDの他人事のような光。夏はすぐそこにあると告げる湿気は、シャツの中にじわじわと入り込んでくる。遅い電車だというのに、人は一向に減らない。暗くなってからの時間は、疲れて不満顔の人々に置き換えられて消えていく。あたかも最初から無かったように。

201406-008street電車の中を人混みの頭越しに振り返り、ふと、アーチ状の梁が連なる回廊を思い出した。休日、誰もいない街の朝だった。iPhoneを取り出し、写真を探す。自分もまた、現代の聖書を抱えたひとりとなった。

 

3枚の写真はiPhoneで撮影

Cross Cultural

Patchy rain

201408-023世界中に天気予報を提供している予報会社のウェブサイトを見ていると、普段あまり見かけない予報が出ていたりする。耳慣れない単語に大雑把な地域と時間。初めて見ると、なんだか分からない印象である。テレビの天気予報はさらに曖昧だ。特に衛星放送だったりすると、かなり大まかで、ここがどこだか分からないということもしばしば。曰く、「ヨーロッパ北部は、今日は概ね patchy rain である。」3時間毎の降水確率はどうなってるのかとか、横浜の夕方の時間帯は降っているのか曇りなのかとか、やたらと細かい予報に慣れていると、大雑把な天気予報はほとんど役に立たないような錯覚に陥ってしまう。
ヨーロッパから明日日本に向かうというのに、「日本」は概ね雨だと言われても、どう考えても大阪と東京が同じ天気とは思えない。そう考える。そして、案の定、飛行機に乗った途端、「東京は曇り時々晴れ、気温は30度の予報」とアナウンスを聞き、スクリーンの天気予報で西日本を中心に雨のところがあると説明していたりすると安心する。半日遅れでもよほど正確ではないか。

とはいえ、ヨーロッパの人が大雑把なわけではない。皆が見ている情報である。しっかりとした予報会社もあるし、今や、天気予報はグローバルなデータで行われている。1時間毎の予報があり、アメリカの会社が日本の各都市の予報を出していたりもする。ようは、視点やニーズの違いなのだろう。

 

20130916-001シドニーやパリでは、雨が降っても傘をささず、襟を立てて歩く人を多く見かける。傘をさしているのは、皆、旅行者なのではないかと思いたくなる。少なくとも、明らかに住んでいそうな人を見ていると、傘を持っていないことが多い。もちろん、傘をささずに歩けるような人は、旅行者のような格好ではないということだろう。あるフランス人に聞いたら、家に傘はあるが持ち歩いたことがないという。少し待てば止むし、ほとんど車で移動だし、持ち歩く理由がないのだそうだ。特に女性には傘を使う人も多いようだし、雨に無頓着というのは、あまりにステレオタイプな見方であろうが、確実に日本よりは傘を使わないとは言えるだろう。

そんな文化の違いもあって、日本語には雨に関する単語が多いという説もある。音もなく静かに降る小粒の雨を小糠雨(こぬかあめ)と表現するが、確かに雨を小糠に例えるのは、風情があるというだけでなく、生活文化の背景があってのことだろう。
小糠雨の反対ではないが篠突く雨(しのつくあめ)となると、細竹で突き刺すように激しく降る雨であり、これまた篠という文化背景がありそうな言い回しである。
今時はほとんど聞かないが、秋霖(しゅうりん)という言い方もある。秋雨とは響きの違う言い方に、使い分けたくなる単語である。
音の響きという点では、小夜時雨(さよしぐれ)も古風で良い。秋霖の季節が終わり、しばらくすると、小夜時雨の季節となる。コートが欲しくなっても季節の変わり目までは恨めしくならない響きである。

 

こうやって考えると、何となく日本語の背後にある雨の感覚と表現の広がりに目が行くが、実際には、その土地の文化と言語に詳しいかどうかの違いである事には気付かなければならない。イギリスで雨が rain と shower だけというわけではない。冒頭の patchy rain は天気予報で使われる言い方で、情緒あるという表現ではないが、つぎはぎの疎らな雨という、少し分かりにくい日本語にはない感覚である。英語もフランス語も得意ではないし、語彙も多くないので何とも分からないが、北部フランスなどで patchy rain を実感することはある。降ったり止んだりというのとは少し違う。もっと地理的に見た感覚である。恐らくは、篠突く雨のように、日常ではほとんど使われない雨に関する単語が各言語にあるだろう。
ついでに天気予報で使われる〜もちろん日常でも使われる〜単語を少し拾えば、 drizzle は霧雨が近い。一面の雲を表す overcast という単語は、英語の授業では出てこなかったように思われる。

 

さて、「ヨーロッパ北部は、今日は概ね patchy rain である。」という曖昧としか思えない表現だが、実際は、滞在中は十分に正確である。こんな予報が出ていれば、いつ雨が降るかわからないし、関東の天気でありがちな、降ればしばらくしとしと降りで、止めばどんより曇り空という感じではない。晴れたかと思えばざっと降り、いつに間にか止んだかと思えば再びポツポツ、そしてまた晴れ間という天気だったりする。12:00から15:00の降水確率50%曇り時々雨でも、午後は patchy rain でも情報としてはさほど変わらない。知りたいのは、せいぜい、雨が降る可能性があるのかどうかだけである。それによって、朝、傘を車に積んで仕事に行くか、健康のために自転車で行くかを決めるのだから。
「今日の降水確率は、午前中10%、午後30%、晴れ時々曇り、山沿いを中心に雷雨のところがあるでしょう。」と「晴れ、カミナリの可能性あり」との差異は思いのほか小さいのかもしれない。