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9本の傘

201404-018The text was written only in Japanese.

一昨年の夏の台風のあと、駅に向かう道程は何とも落ち着かないものだった。まだ緑色をした樹々の葉が、アスファルトの黒々とした歩道に濡れて撒き散らされていたからでもあり、どこから来たのかも分からないピンクや青のプラスチックの何かや金属の板のようなものが、昨日まで何もなかったその場所に置かれていたからでもあるが、落ち着かない理由は、それ以上に傘にあったような気がしている。細い金属の傘骨は、一度フェンスを固定するために使った後の針金のように不規則に曲がり、それに半ば引っかかったようにビニールが丸まっている。そんな壊れた傘が幾つも道に落ちていた。よほど風雨が強かったのだろう。必死に傘の柄の上のほうを持ち、飛ばされないように小さくなって風に耐えながら家路を急ぐ。路地の壁などで巻くように変化する風に傘も安定しない。少し気を許し瞬間、突然後ろから回り込んだ風に、傘がひっくり返る。慌てて戻そうとするが、一度裏返った傘は、もう戻ろうとしない。やがて努力しても無駄だと知る。すでに、その間にも頭からつま先までずぶ濡れなのだから、同じ事だ。用を為さなくなった傘を畳むこともままならず、その誰かは、傘を放り出して歩き出した。

そんな事があったのかもしれない。単なる想像のひとつである。もしかすると、風に飛ばされ何処かに行ってしまったひとつかもしれないし、その前からそこにあったものかもしれない。きっと大変な一夜だったのだ。

そう思いながら駅に向かう道には、9本の傘が落ちていた。9本の傘には9人のそれぞれの夜があったのだろう。きっと無事に帰れただろうが、無事でも何か大切な書類を雨に濡らしてしまった人もいるかもしれない。9人のそれぞれを想像しながら、その9本の傘に私は落ち着かなくなっていた。一昨年の夏の事である。

やがて、その落ち着かない感覚は、9人のそれぞれの酷い夜にではなく、用を為さなくなった傘がそこにあることによるのではないかと思えてきた。傘を放り出さざるをえなかった酷い夜は、夜が明けて、壊れた傘を道端に棄てた次の朝になっていた。きっとそれは仕方のないことだったろう。世界中の誰もが、同じ場面で同じ事をしたに違いない。9本の傘に9人のそれぞれがあっても、同じ様に傘を放り出したのだ。そしてそれは、翌日の朝にゴミとなった。おそらくは誰も片付けようとしない金属片として。落ち着かない感覚もそうやって残された。

201404-047フランスの哲学教育には、une émancipation intellectuelle (知的親権解除)という言い方がある。une émancipationは、英語の emancipation と同じ「親権解除」の意味で良いらしい。the emancipation proclamation、かの奴隷解放宣言の「解放」である。金銭的にでも住む場所でもなく、つまりは、物理的な開放ではない。知性面での解放である。間も無く市民として責任を負うことになる子供たちが、知性面で親から解放される。親権解除するのは親ではない。子供たち側である。「知的親権解除」あるいは「知性的な開放」は、すなわち、「自立」に他ならない。親の考えではなく、一市民として自分の考えを持ち、一市民として責任を果たす。そうした自立がフランスの哲学教育にはあり、未来の市民を養成する場が哲学教育でもあるのだ。

高校生にもなれば、それはあたりまえのように問われる課題だ。バカロレアの哲学の問題のひとつ「私たちは国家がなければもっと自由なのか」に答えるのは容易ではない。それでもなお、問いは発せられる。

9人の9本の傘に落ち着かなさを覚えるのは、何処かにこの知的親権解除と関連する何かを感じるからと思えてならない。傘を放り出すしかなかった夜が明け、静かになった朝が来た時、市民としての義務を果たすことができたのか。親ではないにせよ、何処かで社会に責任を負わせている部分はないのか?9本の傘を片付け、9人の夜を過去の出来事にしているのは一体誰なのか。

自立は思う以上に難しい。誰かに助けを求めないという意味ではない。自分で考え、自分の行動で社会に責任を果たす事でなければならない。そう教えたから出来るという事でもない。自分で考え自分で行動する事が身についていなければならない。そしてそれは、多くの日本人にとって容易ではないような気がしている。

201403-069-teien先日、知り合いのフランス人エンジニアから、推薦状を書いてくれないかと頼まれた。紹介状など、映画の中で描かれる、志ある若者がチャンスを得るべく年長の先生に頼む古い時代の習慣のように思っていたから、正直、面喰らったという感じであった。聞けば、第三者の公正な推薦が必要なのだという。そこには権威のようなものもなければ年長といった考え方もない。社会に認められた自立した存在であることが重要なのだ。その上で、推薦者によって封じられ、推薦者自身によって署名されたその書類に書かれた事が判断材料のひとつとなって評価される。そうした事をあたりまえの事として教育し、自立した個人を社会で育てていく。それがフランスの哲学教育なのだろう。そう考えれば、知人に推薦状を書いてくれと頼む事など普通の事に違いない。人は、一人で生きているわけではない。社会的責任とは、成功しても失敗しても自分自身が原因などという意味でもない。社会にあって、ひとりの自立した市民として責任を果たすことが期待されている。

春本番となって木々が芽吹き、周囲に様々な色が溢れ始めた今になって、不思議と一昨年の夏を思い出した。9本の傘は、いつのまにかなくなっている。