Bonne journée, Cross Cultural

流行りことば


今週はいつもと少しだけ違って、コンピュータサイエンスの外側の話である。

昔からインターネット・バズワードの寿命は短く、次々と現れてはその価値も曖昧なまま忘れ去られていくというのが常である。何かできそうな気がするインターネットの性質と、流行りに乗れば何か儲かりそうな気がする怪しい空気とが、その原動力なのだろう。何も存在しないのに騒ぎ立てれば詐欺でしかないが、バズワードとして扱われた技術は使い方によっては価値がある歴とした技術であるから厄介だ。ブロックチェーンなどその最たるもので、一部のコンピュータサイエンスに詳しい技術屋は、笑って距離を置いていた。
「そりゃ、技術としては面白いが、ブロックチェーン技術を使うこととブロックチェーンを使ったデータの値段とは別だよね。」
それが専門家の冷静なコメントだった。

このところの流行りは生成系AIと呼ばれるもので、キーワード入れてゴッホ風にと支持すれば、そのテーマで描いたゴッホの絵が出てくるなんてものが普通にある。面白いのは、その生成された絵が、さもゴッホが描いた風というだけで、明らかにゴッホではないというあたりである。AIが学習したのはゴッホの出来上がった絵のデジタルデータであって、ゴッホを取り巻く状況でも文化でも人柄でもないのだから当然ではある。

さらに直近ではChatGPTが流行りで、学生が論文書くのに使ったかというので「しょうがないなぁ」なんて思っていたら、ニューヨーク州では弁護士がこれを使ってありもしない判例を引用したとか。もはやChatGPTって何?という時代から、ChatGPTをどう使うかというところに話題が移っている。

このChatGPTのようなAIには、莫大な学習データが必要だが、実際のところ、そのような莫大なデータから知見を得ようという発想は、20年ほど遡る。20年前と今の違いはあまり大きくなく、新規性という点で見たら、AI技術の進歩くらいしか違わない。もちろん、通信が速くなり、演算速度も桁違いに高速になって、技術的に困難だろうと思っていた事が容易になったという事実はある。だが、根本的な違いはAIくらいなもののような気がする。AIが登場するのは更に20年遡るが、例えばディープラーニングのようなブレークスルーは、実用性という意味も含めてごく近年の事なのである。

変わっていない部分は、「集合知」という勘違い部分である。勘違いという言葉には多少の語弊もあるだろうが、元はと言えば単なる勘違いだと個人的には思っている。

集合知は、個人的な理解では、個々の無知でも集まれば集合的な知性が生まれるという仮説である。蟻は個々には匂いに反応して勝手気ままに動いているが、それらが集合すると全体として個々の役割が生まれ、餌のありかを知り、コロニーを守ることができる。一匹のアリは、どこに餌があるかを知らないにもかかわらずである。

これをインターネット界隈では拡大解釈した。今と構図は何も変わらない。インターネット上にある知見はひとつひとつ断片的なものだが、それらを集めた「メタ」な知見は、識者の判断を超越すると言った類である。当時はそのその世界中にある知見を俯瞰する術はなかったから、アイデアは夢というより妄想に近かった。俯瞰できるようになれば得られるという集合知には何ら根拠もなかった。だからひたすらそれらしい例を探し、Twitterで民主化が始まったとか、集合知とはおおよそ関係のない例を持ち出して安心していたところがある。今では集合知を信じるような話はすっかり形をひそめ、「メタ」のような使い易い言葉に流れている。

そんないい加減さはインターネット固有の特性というわけではない。かねてより量子力学で使われる「不確定性原理」は、どうしたことか「不確実性」と混同され、不確実であることが世界の原理であるかのように言われ続けている。全く別な話なのだが、シュレディンガーの猫の話まで持ち出されて、もはや宗教か哲学のようになってしまった。人とはそんなものなのだ。

ChatGPTが今後どうなって行くのかわからない。あえて誤解を恐れず言えば、インターネット上の公開データを使った要約エンジンみたいなものだから、それが便利なところにだけ使われるのだろう。それは、たとえ文章が多少おかしくても自動翻訳機能が使われているのとさして違わない。Googleの検索アルゴリズムの進化は広告に直結するというモチベーションがあるが、今のところChatGPTにはそれに相当するものがない。飽きて終えば必要性がある部分に少しだけ使われる程度になるのかもしれない。

Bonne journée

やわらかいシステム

コンピュータネットワークで言うシステムは、グローバルに見れば、定型的な処理・操作を時間・空間に対して秩序を持って行うための枠組みである。例えば、社内の業務管理においては、

  • 必要な情報を入力・収集
  • 紙などに記録
  • 整理して表示
  • アクションの状況を把握

といったことが、間違いのないように一連の流れとして行われる事を強制する仕組みであると考えられる。そのためには、手順や情報の項目などが整理されていなければならず、その場その場の最適解では矛盾が発生することになる。システム・エンジニアの仕事は、全体としての最適解を探すということでもある。ひとりの利用者やある局面にとってどんなに優れた解を提供しても、それ以外にしわ寄せがあれば、それはたちまち使われなくなる。
一方、利用者から見れば、システムが提供するものはその結果でなければならない。販売数量を把握して、必要な生産量を正しく決定するといったことが、余分な作業をすることなく実現されることが重要である。すなわち、やりたいことを感じている利用者と、やりたいことが何であるかを明確化するシステム・エンジニアという2つの立場でシステムは構築されなければならない。

それは、言い方を代えれば、利用者にとっての利便性(ユーザビリティ)あるいは操作性と求める結果が確実に得られる一貫性とでもいうべきものの両立ということでもある。問題なのは、利用者によって求めるものが異なるということである。システムは、利用者によって使う目的が異なると言っても良い。
例えば、在庫を管理するシステムは、在庫を引き当てる目的でのみ使う利用者もいれば、不良在庫を分別し対処するために使う利用者もいるかもしれない。経営的立場であれば、総在庫金額の推移や回転率の分野毎の状況が知りたいかもしれない。顧客と販売契約を結ぶために在庫を引き当てた担当者にとって、素早い簡単な検索は必須である。もちろん、間違いはあってはならない。

やや異なるが、たとえば自動販売機であっても、2つの点からシステムは構成されている。ひとつは、コインを投入してボタンを押し、物品が出てくる仕組み全体であり、もうひとつは、自動販売機を管理して物品を補給し、売り上げを回収する整合性の取れた仕組みである。自動販売機を使う利用者と自動販売機を使って商売する側では目的が違って当然である。それでもなお、自動販売機はひとつでなければならない。
Continue reading “やわらかいシステム”