Cross Cultural

日曜ポスト


時々この国での論点が分からなくなることがある。いや、そんな大袈裟な話ではない。Webでニュースを読んでいて、何がポイントなのか掴めないとか、時には何が書いてあるのかぼんやりとしか分からないとかいう類なのだが、ひょっとしてこれはクロスカルチャーの話なのかと思いあたった。そうであれば、このblogの(すっかり忘れていた)テーマである。

ずいぶん前だが、仕事の同僚が配送荷物をもって外を歩いていた時の事である。小さな段ボール箱ひとつで大した重さでもなかったが、安全のために両手でしっかり抱え、配送受付の指定場所へと向かっていた。天気も良く、とても気持ちの良い午前だった。ただ人間何が起こるかわからない。その同僚はほんの少し斜めになった歩道で何故か転んだのである。斜めになったと言っても言われて見ればそうだなと分かる程度で、数センチの段差があった場所をバリアフリー化するために微かな坂にした場合であった。つまり、誰でも安全に通行できるようにした何でもない場所で、本人も訳も分からず転んだのだった。

困ったのは、転んで足を捻った事だった。安全に配慮した場所だったから怪我は大したことはなかったが、仕事中だから「労災」である。念のため病院に行き、証明書をもらって、部門で対策を立てることになった。いや、大したことないんだし、対策って言っても何もないでしょ、というのは規則上許されなかった。足元を見えるよう荷物を片手で持てという訳にもいかない。片手で持つのが危険な事もあるから両手で抱えている。いや、そもそも安全に配慮した場所だから、何故転んだのかも分からない。キツネに騙されて転がされたとでも書くか。結局、対策は「転ばないように気をつけて歩く」である。何も意味はない。生産性のない仕事だねと笑うのが精一杯だった。

人間にはヒューマンエラーというものがあって、機械のようには動かないから人間である。どんなに気をつけたところでミスは起こる。小さなスロープに訳もわからず転ぶこともある。そんな場所に足元注意と書いても何の役にも立たない。フランス人の同僚にそんな経験を冗談半分で話したら、真顔で無駄なことはやめろと言われた。間違いは起こることが前提なのであって、役に立たない対策をしても意味がないという。

似たような話だなと思ったのが、学校プールの水栓の話である。昨年、プールの注水バルブを閉め忘れて数百万円だったかの水道費用がかかったというニュースがあった。今年も同様のミスがあって、案外バルブの閉め忘れはよくあることだということらしい。人間のすることである。間違いは起きる。

議論百出。やれ、センサーをつけないのが悪い。いや、何度も使わない学校プールにそんな馬鹿高いセンサーなど付けられない。そもそも学校の先生の仕事というのがおかしい。管理者である自治体がやるべき仕事だ。それでなくても先生は忙しい。先生だって公務員だ。責任をとって支払うべきだ。いや自治体の支払いだろう。税金で支払うべきではない。そもそもプールなんて民間のスポーツクラブに委託しろ。

件のフランス人から見たら疑問符だらけだろう。議論が大好きなフランス人だから面白がって議論の輪に入るかも知れないが、結論はわかりきっている。どんなに気をつけたところでミスは起こる。回避できないのだから個人に責任はない。ミスが起きる前提でミスが起きてから対応すれば良い。管理する自治体に余裕があればセンサーをつけるのも良いだろうが、滅多に起きないミスなのだから、そのミスが起きたら予備費から支払えば良い。事故率を想定して予備費くらいとってあるだろう。くだらない議論は生産性が低い…、である。

まあ、正直言って、フランスはその事故率が高そうである。問題が起きてから立ち止まって考える方式は、合理的だがどうしても事故率は高くなる。コロナ(COVID-19)ワクチン証明は本人確認もなくバーコードで簡単にスマホにセットできたが、偽物も数多く発生した。それでも事故率はたいして高くないと判断してさまざまな施策を開始したからスピードは早かった。患者数は絶対値ではなく10万人あたりで集計したから地域ごとの状況も極めてクリアだった。日本が本人確認だとか偽物対策だとか言って始められずにいる間にフランスは民間利用も広まり、合理性が優先された。こんなことを書くと、だからフランスは患者数が多かったのだというコメントが必ず出るが、日本は初期の押さえ込みに成功したものの、最終的な数字は決して小さくはなかった。いささか強引ではあるが、ヒューマンエラーなんて起きて当たり前と割り切る合理性のようなものも、時には重要なようである。