Bonne journée

雨降りの昼下がり(詩篇)


いつから雨が嫌いになったのだろう。
きっと嫌いになったわけじゃない。
ちょっと面倒になっただけなんだ。
だって、濡れた革靴を拭かなきゃいけないし、
自転車だとレインコート着なきゃいけないし、
待ち合わせに遅れるって電話したくないから。
雨が嫌いになったはずはない。
だって、雨の日のブーツだって持ってるし、
昨日だって傘を丁寧にしまったし、
黒い雲を見て目を背けたりもしなかった。
赤茶色の枯葉を踏み分けて近道を抜けたつま先に、
昨日蹴飛ばした空き缶のカケラがくっついているような気がして、
段差を飛び越えるのを躊躇う右足と、
置いてきぼりになった左足の膝に、
水溜りに隠れた無数の水滴が飛びついて来るから、
ちょっと嫌になっただけなんだ。
いつから雨が嫌いになったのだろう。
金属で出来たみたいな冷たい銀色の粒が、
一日の終わりに辻褄合わせのように流れ込んできた光線と
今日の言い訳ばかりの仕事を締めくくるチャイムとを
無関心を装うように覆い隠すから、
ほんの少し嫌いになったと言い訳したくなっただけなのだ。
しばらく前に住んでいた異国の町が、
いつだってはっきりしない雨降りだから、
ほんの少し嫌になったような気がしただけなのだ。
くすんだ空を見上げてもきっといい天気だねと挨拶し、
傘を忘れた午後でも笑って空を見上げていたのは、
きっと、無理に笑顔を作っていたわけじゃない。
乾いた鋭い刃先のような風が頬をすり抜けていく季節よりも、
氷雨が指の関節を叩くような朝の方が、
冗談を言いながら飲む淹れたてのコーヒーが美味しいことだって、
疾(と)うの昔から知っていた。
日差しが紺のコートの背中を温める午後が、
耳を赤く冷やす日没の前触れだと
ずっと分かっていたのではなかったのか。
だから雨が嫌いになったわけじゃない。
雨降りの日を探してウロウロする天邪鬼は、
きっと雨が好きなのだ。
ダウンの入った真新しいネイビーのレインコートを引っ張り出して、
カサカサになった指先をポケットの奥底までしっかり収め、
時には雨に打たれて歩きたい。

 先週に引き続き「雨」がテーマである。この詩篇が当初意図したところを表現できているか甚だ自信がないが、思っていたことは表現したし、新しい表現もしてみたつもりでもある。
 上の写真は数年前に撮ったお気に入りの雨の写真なのだが、ここまでずっと使わずにきた。雨のブルターニュらしい柔らかな光が差し始めた時の雨粒の輝きが、少し憂鬱で少し楽しい散歩の一部となっている。ブルターニュでは傘をさしてバーベキューをするんだよなんて自虐的に言うが、その楽しさを知らないなんて勿体無いと一部のブルターニュの人は思っていたりするのである。