Bonne journée

裏通りの本屋と日本語

つい忙しくなって本を読むのを忘れてしまうのは、案外言い訳でしかない。確かに、以前のようなワクワクする気持ちを本に感じなくなってしまっているのは事実ではある。こんなところで商売になるのかと思うような路地裏の古い本屋にふらっと立ち寄り、手書きのポップを頼りに思いがけず出会った本を買って、バッグの片隅に大事にしまって家に帰るようなことはもうないのだろう。でも、それと本を読まないことには因果関係はほとんどない。オンラインで買ったとは言っても、ちょっと興味があって手にしたことに違いはないはずなのだ。

以前にまして忙しいのは間違いない。10年前と比べたら今のほうがずっと勉強もしている。時間など計ったこともないし、そんな事に興味もないが、明らかに仕事以外にも時間は取られているし、1日がせめて36時間だったらなどとくだらないことも考える。しかしである。実は自分でも分かっているのだ。面倒がって時間を作る努力をしていないだけだと。ちょっとしたことならウェブで見ればなんでも分かるわけで、深い思索よりもインスタントな結果に流されているのである。

そうやってウェブ上の文字ばかりを追うようになると、ちょっと気になる表現も多くなる。言葉の乱れだとか、モラルの低下だとか、いろいろ言いたくなるのだが、最初にひとつだけ買いておかなければならない。巷の日本語の表現が気になり出したら、それはもはや時代からずれ始めたという事でもある。言葉は時代に合わせて変わるものなのだ。ウェブ上の言葉は書籍と違って絶えず変化している。だから、この先に書こうとしていることは自分にも反射する熱線のようなものであって、本当なら息を止めてさっとやり過ごした方が良いのだろう。困ったものである。

「このブログでは、これから猫について書いていきます。」
なんでもないこの文章が気になるのは、「いきます」の部分である。たった今、未来に向かって書き続けると宣言しているのだから、気にすることもない。どうぞおやりなさい。

ただ、していきますと言う言い方は、意気込みよりもむしろなんらかのゴールのある計画を暗示する。「どうやったら猫と話せるようになるか、順を追って説明します。」と言う意図なら分からないでもないが、おそらく意図するのは「このブログでは猫について書きます。」である。冒頭の文章では意味のない暗示が多分に含まれてしまう。そんなつまらないことを考えずとも良いと自分でも思うが、気になり出すともうだめである。周りがずれているのだろうが、相対的に自分が取り残されているのだろうが、気になるということだけはどうしようもない。

そういえば、先日のニュースで読んだお詫びの言葉もかなり気になっている。「要請に一部沿わない形で」である。内容は詳しく書かないが、ある省庁が国民に強く要請しておきながら自分たちではそれを守っていなかったと言う文脈だった。それは残念だが、気がついて正そうとしているのだから良いことだろう。

ただ、この「一部」というのはどんな意味だろう。「要請には沿っているのだが一部分でそうではない部分があった」という意味合いだろうか。基本的には全くやましいところはないのだが、実際のところそうではない部分もあったということが言いたいのなら理解できるが、お詫びなのだからおそらく意図するのは「要請に沿っていなかった」である。「一部」を入れたためにすっかり言い訳になってしまっている。こちらもつまらない話であってどうでも良いのだが、気になりだすとどうも落ち着かない。

同じようなよく聞く表現に「一部不適切な」というのがある。そりゃ一部だろう、全体が不適切な表現だなんてそんなわけはない。「文中に不適切な表現がありました。お詫びいたします。」で充分なはずである。にもかかわらず「一部」だという。紛れもなく言い訳である。つまり些細なことだと聞こえてしまう。

「もしあったとすればお詫びしたい」というのも同じ類か。つまり自分はそう認識していないと言っているのだが、事実は変えられないのだから単純に「お詫びしたい」で良い。どうして修飾的な表現を付け足したくなるのかと問えば、要はやましいところがあるのだが責任は負わないという意思表示なのだろう。

なんにせよ、こうやって感じる言葉の不自然さは世間とのズレが表に見えてきたということでもある。だから「結果的に」「一部」不快に感じた方が「あったとすれば」お詫びしておきたい。