
written only in Japanese
まともなフランス語を話すこともできないどころか、年がら年中相手の言葉を聞き返す困った移民だが、すっかりその怪しげな移民として毎日生活していれば、その地の住民らしくはなってくる。知らない相手でも自然に挨拶もするし、街で何かを聞かれることもある。だからといって、不自然なフランス語を話す怪しい移民であることには変わりない。
その怪しい移民が旅行者と違うのは、例外的な事態にあまり動じないことだろう。エレベーターで何階かと聞かれても、スーパーの会員カードを聞かれても、即座に答えられなかろうがいたって平静である。
これがフランスに永住するつもりなら、エレベーターで階数を聞かれるのは単なる日常であって、例外でも何でもない。その点では怪しい移民は旅行者に近い。旅行者に近いにもかかわらず何事にも動じないからこそ怪しい移民なのである。そしてその怪しい移民だからこそ、発見しなくても良いものを発見することができるというものである。
住んでいれば、市民としての義務もある。先日も人口動態調査(国勢調査)の対象となったという手紙を受け取ったのだが、なんだかよくわからない。ともかく急ぎ連絡してほしいと(当然)フランス語で書いてある。連絡するのはいいけど埒あかないと思うよと独りごちながら、とりあえずフランス人の友人にアドバイスを求めてみた。曰く、そんなもの英語でまくし立てれば相手も諦めるよ。ごもっともである。英語に困らない人はたくさんいるが、しち面倒臭い人口動態調査の詳細を怪しい移民相手に説明するのだ。きっと諦めるに違いない。
ところがである。調査担当に電話をしてみれば、相手はなんとしてでも調査に協力してほしいらしく、一所懸命フランス語で説明してくるのであった。とうとう根負けしてフランス人に電話を代わってもらい、結局はフランス人でもたっぷり30分はかかる調査にフランス語で回答する事となった。まぁ、そんなものである。お役所はいい加減だと言われているフランスでもみんな立派に仕事をしているし、調査担当はお役所から仕事を請け負った会社から一人いくらで雇われている。怪しい移民相手でも一所懸命仕事をするのが仕事であって、怪しい移民も法で守られた市民としての義務を履行するのが責任ある態度というものである。
責任ある態度といえば、バスや列車の改札がないのがヨーロッパである。パリの地下鉄など例外もあるが、無賃乗車をするか否かは本人の責任による。聞くところによると貧しいからバス代が払えないといった理由で無賃乗車するという例もないではないらしいが、高額な罰金もあって、改札がなくても皆しっかり払っているそうだ。そもそもバスの運転手の横に改札の機械があるわけでもないから、完全に自分の責任である。無賃乗車の輩がいてもそれは運転手の責任ではない。無賃乗車した本人の責任である。
さて、そうなると満員で降車口からでも無理やり乗るような場合には改札の機械には到底たどり着けないことになる。Pardon!と大声をあげながらなんとかたどり着いた学生はおそらく相当真面目なのだが、なんとか道を開けた乗客も相当真面目といっていいだろう。半分はすっかり諦め、ドア近くになんとか自分の場所を見つけて改札など使おうとしない。出来ないものはできないのだから仕方ない、検札などできるわけがないとでも言いたそうである。怪しい移民も右に倣えで、動じる必要はない。検札でもあれば誰もが文句を言うに決まっている。
そんな風にたかをくくっていると、ある日突然降車口のドアが開かなくなるのを経験することになる。降りたいとボタンを押してもドアは開かない。そして間も無く前から下りてくれと声がかかる。臨時の検札である。降車する人をひと通り下ろすと、ドカドカと検札の係員が乗り込んできた。吊革につかまる乗客がいる程度には混雑しているバスを前から順にひとりひとりチェックしていく。やれやれ。自分の番が来て、Bonjourと言いながらチケットを手渡し、係員はそれを機械にかざし、Merciという言葉とともに再びチケットが戻ってくる。係員は一通りの確認を終えると全員に向かって一言、Merciとだけ言って次のバス停で下りていった。少々バス停で止まったが大きな遅れではない。誰もが何事もなかったように本を読み、音楽を聴き、誰かと話している。特に揉めることもなく、ただの日常として全員がチェックを受け、何事もなく時間が過ぎていく。怪しい移民はこんな時は動じない。
移民という言葉は今や適切ではない。移民には新たに国籍を取って外国から移り住んだ市民もいれば、仕事でしばらく滞在しているだけの臨時の市民もいる。元は難民だった人もいれば、その国に請われて移り住んだ人もいる。大学で学ぶ学生かもしれないし、1年程度の季節労働者かもしれない。明確な定義がないからどのように使っても良い。日本語だと移民と移住者は違うかもしれないが英語のImmigrantだとあまり区別はない。ただ、少なくとも日本語の「移民」には少しだけネガティブなニュアンスがつきまとう。だからここではあえて少し狭く移民という言葉を使うことにした。きっと読んだ人によって捉え方が違うだろうとわかっている。
ただひとつ言えるのは、いつもフランスの誰かに助けられながら生活しているフランス語もろくに話せない移民は、時にはのけものになることはあっても立派に市民として敬意を持って扱われ、周囲にはスペイン語やらドイツ語やらを話す移民が同じようにいることに安心していたりするのである。世界は捨てたもんじゃない。