今回は、フランス料理を中心に食事のマナーの話である。とは言っても、マナーについて考えたいわけではない。郷に入っては郷に従えということで、なかなかその差を埋めがたい文化の差について書いてみたい。だって、パンをどうしたらよいのか困るのだから。
あらゆる食材が手に入り、東京であれば、世界中の料理がどこかのレストランで食べられるようになって、食文化の違いをあまり感じなくなったが、それでもなお、普段生活していない国で食事をする時にはわずかな緊張感のようなものを感じるものである。子供の頃に、ナイフは右手フォークは左手と脅迫されるかのように言われたからかもしれない。今時、そんなことは教えないのかもしれないが、何かそんな手順のようなことで緊張感をもつとしたら不幸である。やってみればわかるが、右利きの人が左手でナイフを持つと思う様に食事が食べられない。そんなことを考え始めると、じゃあ、左利きの人はどうなるのかと悩みが増えるだけである。当初の目的は、美味しいものを食べることだったと早く思い出して、料理に集中するほうが身のためである。悩んでいるうちに料理が冷めてしまいかねない。
テーブルマナーの最たるものは、フランス料理ということになっている。お洒落なフレンチレストランで、マナーを気にしながら食事をするのがお洒落なのかどうか分からない。ただ、食事のマナーと言えば、日本ではフレンチである。そうなると、フランス人と食事をするのはマナーを気にした、人によっては大変な所業ということにもなりかねない。やれ、どんなものでもフォークの背に乗せて口に運べとか、食べ終えたらフォークとナイフは揃えておけとか、決まりごとが列をなしてやってくる。
だが、実際のところ安心して良い。食べる側は、目の前に自信を持って出されたはずの料理人の作品と格闘すべく、食事に集中すべきである。フランス人であっても、フォークに乗せにくい細かな料理はフォークをひっくり返して使うくらいの合理性は備えている。伝統的なマナーがどうかは知らないが、食べにくいものは食べにくいのである。食べてる最中にナイフやフォークが置きたくなったら、そのまま皿に置けば良い。だって他に置く場所がないではないか。食べ終わったら、世話してくれるムッシューのために丁寧にナイフとフォークをまとめておくくらいの気遣いがあれば良い。
ただ、その土地の習慣や宗教的なルールには敬意を払うべきである。愉しませてもらっているのに、相手に不快感を与えては申し訳ない。努力した上で困ったことになったのなら、運がよければ、相手は大目に見てくれるものである。
見知らぬ土地での食事で困るのは、むしろ、読めないメニューと見てわからない食材かもしれない。分からない事ほど不安感を与えるものはない。書かれた食材のほとんどが読めるのに、たったひとつ分からない単語が書かれているだけで、出てくる料理が不安なものになってしまう。もちろん、分からないから何が出てくるのか楽しみということもある。
注文して見たら、想像してなかった茸がこれでもかと肉を飾っていて、そう言えば聞いたことある名前だったとメニューの分からなかった単語を思い出すというのもありである。これが、注文して見たら想像通りの料理が出てきて、あの分からなかった単語は一体なんだったのかと訝るというのは気持ちが悪い。何を食べてしまったのかと、暫く悩む事にもなりかねない。経験したことのない味をソースに感じようものなら、なおさらである。
アフリカや中東諸国と関係の深いヨーロッパ諸国では、日本で韓国料理を見るような感覚でアフリカ料理店が存在している。フランスでは、クスクスが日常にあるし、全般にまろやかな味付けの多いフランスでは、比較的辛さなどを感じる手軽な場合でもある。
こんな場所では、逆に意外な食材に悩む事は少ない。それは、伝統料理と外から入ってきた料理の違いかもしれない。ローマ時代にアフリカや中東から広まり吸収された食材や料理は、すでに伝統の中に定着しているだろうし、最近入ってきた料理は、あくまでもエスニックということだろう。エキゾチックな料理は、それ自体が魅力なのであって、細かな味の違いを云々するに至らないのが正直なところでもある。知らないうちは、単に、その料理を食べることだけでも新鮮な体験であり、慣れれば、味の差にうるさくなるということでもある。
かつて、バンフ(カナダ)でギリシャレストランに飛び込んでみたことがある。山の真ん中でなぜギリシャ料理なのかという疑問はさておいて、印象に残っているのは、魚の味をがっちりと包み込んだ複雑な香草の風味ばかりである。余程印象深かったということだろう。
今食べたら違う印象を持つのだろうが、その時は経験したことのない味で、非常に楽しめたことは事実である。知らない食材や料理とは、わずかな緊張感と楽しみを与えてくれるものである。
洗練されたフランス料理と対極的に見えてしまうのが、アメリカの食事である。ハンバーガーやピーナツバターがよろしくないと言っているのではない。ケイジャンのようにアメリカ料理として昇華したものもあれば、SUSHIも次第にアメリカ文化となってきたようにも思う。ポカホンタス以前の古いアメリカの食事文化が見えないのが残念であるが、それは、日本から見ているからかもしれない。
むしろ、気になるのはテーブルの乱雑さだろう。食事のあとは嵐が過ぎ去った後のようなこともある。これは実体験から得た印象であって、実際には違う可能性もある。たまたま個人的に運が悪かったのかもしれない。
ただ、では洗練されたフランス料理のテーブルが同様に洗練されたものかと言えば、少なくともひとつだけ例外がある。例外だと感じている。パンの扱いである。
フランスで食事をすれば、パンが必ず供される。日本にいて、注文していないのに水が出てくるのに似ている。普通のレストランならバスケットにいれて、テーブルの真ん中にどんと置かれるという事が多い。少し高級なレストランなら、ウェイターがひとりひとりにどれが良いか聞いた上で、個別の皿においてくれるが、普通は人数分いっぺんに出てくるだけである。店によってはパサパサしてひどく不味い味の場合もあるが、そんな店は、見えるところで適当に切っているだけのことも多い。だから、感覚的にはおまけのような気分になることもある。でも、パンは定食屋でサービスでついてきた漬け物ではない。フランス料理に欠かせない重要な役割を与えられている。一般には、ひどく不味いこともなければ、義務感で出されるようなものでもない。2種類のパンが、綺麗にバスケットに並べられ、見るからに美味しそうだったりする。
その美味しそうなパンを食べていて、日本人的感覚から何となく困るのは、食べかけのパンをどうするかである。確かにバスケットに綺麗に並べられて出てきたが、手にとって食べ始めたら、バスケットに戻すわけにもいかない。メインディッシュの皿のふちにでもおきたくなるが、ソースがついてしまうのも困る。
結局、経験から正解は、テーブルにおくということらしい。フランス人に聞いて見ても無駄である。彼らは困ってないのだから、好きな場所におけと言われるだけである。確かに、紙にせよ布にせよ、清潔なテーブルクロスがあるのだから、そんなものかもしれない。さすがにランチミーティングでお弁当を食べた時には、彼らも会議机の上ではなく、ランチボックスの上にパンをおいていたが、特に気にする風でもなかった。
考えてみれば、パン屋で買ったパンを半分むき出しのまま車のシートに置くくらいである。乾いたパンが、そう汚れるものでもない。郷に入っては郷に従えである。今では何の違和感もなくなった。
パンがおまけみたいな事があると書いたが、最後にひとつ付け加えておくべきだろう。一般には、パンがひどく不味いというのは稀である。何しろ、ほとんどの店が閉まる日曜日でも、交代で店を開けているパン屋が必ずある。休日に開いている当番医がいるみたいな、それほど重要なパンだから、不味いのは例外である。