雨が降る季節にしては遠く列車の鉄を叩く音が響く夜、手元の灯りで指先の傷を眺めていた。まだ少しだけ赤みを帯びたそれは、そのつもりもなくペンキが剥げかかって錆び始めた学校のフェンスを跳び越えるように掴んだ時にできたものだった。遠い金属音は、やがて遠ざかり、指先の傷にはさして興味があるわけでもなかった。ただ、ぼんやりと静まりかえった音を聞きながら、指先の傷を眺めていた。
「どうせ飛び越えられるわけないだろう。」そう、背後から声が聞こえた。だから、少しだけ強くフェンスの端を握りしめたのだった。もちろん、自分の背丈ほどもあるそのフェンスを越えられるはずもないと分かっていた。ただ、飛び越えてみたいと思っていただけだと自分でも分かっていた。いつのまにか、声をかけてきたクラスメートはいなくなって、小さな傷が指先に残った。
線路までは歩いて5分程の距離だった。湿度の高い夜に列車の音が聞こえるのは珍しかった。音は、冬の乾燥した時期にだけ聞こえるものだと思っていた。きまぐれな気流の向きで、どこかに反射して聞こえてくるのだろう。そう思いながらまた赤くなった指先を見た。遠ざかりつつある列車の色はくすんだオレンジで、音を聞くだけでその様子は容易に思い出せた。不規則な敷石とタールのべったりとついた枕木の上を、規則正しい音を立てながらそれはゆっくりと通り過ぎて行くのだった。
風が窓を揺らし、何かをつぶやくような音がした。風向きが少し変わったのか、遠ざかっていった列車の音が急に大きくなったような気がして、ふと机の上に目をやる。壊れたオルゴールのラックアンドピニオン・ギアとノック式ボールペンの中から取り出した小さなバネと音の出なくなったラジオの中の三本足のトランジスタと85個の部品の入った小さな木箱は、以前と同じようにそこにあった。ただ、カタカタと音を立てて。列車はどこかに通り過ぎていった。
それから四半世紀以上の時が過ぎて、木箱は88個の部品とともにどこかになくなっていた。恐らくは捨てたのだろう。中にしまっておいた部品にはいつかどんな価値もなくなって、ただのガラクタになったに違いない。列車が音を立てて走っていた街は、すでに見慣れた風景をかき混ぜたような曖昧な迷路となった。ただ、同じ場所に線路があるだけだった。
何年もそうしてきたように、硬めの椅子に身体を預け、その日の午後思いがけず受け取った白い封筒に手元の明かりでハサミを入れる。大事に収められた固く白い手紙には、明朝体の細い字体で同窓会の案内が印刷されていた。
「同窓会のご案内。桜の咲くあの高台の校舎でともに過ごした皆様へ。」
机の上においた封筒を再び手にし、裏返して差出人の名前を探す。見たことのない差出人の名前。遠く聞こえる警笛音。手紙を丁寧に封筒に戻し、引き出しの奥にしまい込んだ。恐らくは、もう取り出すことはないだろうと思いながら。
時は少しも流れず、ただ堂々巡りをしているだけ
100年も続く孤独があるのだとすれば、100年続く雨もあるだろう。時が流れ、様々な出来事が過ぎ行き、ひとりでないことを知り、ひとりであることを知る。そんなものだろう。
読みでがある本である。文庫本はいまのところ出ていない。周囲に聞いても読んだという人はいない。読んだことがあっても読んだとは言わない類の本があるとすれば「百年の孤独」はそんな本のひとつなのだ。だから誰に聞いても読んだことがあるとは言わない。読んだことがないと言うことはああっても読んだことがあるとは言わない。恐らく、読んだかどうか確信が持てないのだ。ハードカバー470ページの分厚い本は、確かに手に取ってページ繰って行ったに違いないと感じないではいられない存在感を持っている。だが、読んだかどうかは定かではない。幻想文学と文字にしてしまうことは簡単だが、そうした分類が意味をなさないことは間違いない。もう一度最初から読み返すしかないのだろう。
最近読んだ本
百年の孤独
G ガルシア=マルケス著、鼓 直 訳
