Bonne journée, Cross Cultural

1kg

 少し前のことになるが、ニュース報道で1kgが変わったと説明するのを見て、相変わらず分かりやすい説明と正しい説明の間には深い谷があるのだと思い知らされた。その内容は明らかに間違っていて、ニュース原稿を書いた人がその本質を理解していないのか、あるいは本質を理解はしていても市井の人々は理解出来ないと割り切って多少の間違いに目をつぶったか、そのどちらかなのだろう。間違ったニュースを見ながら、なんとなく歯痒いような妙な気持ちになったものである。

 今回1kgが変わったのはその定義である。定義を変えただけだから、日常的な生活にはなんら変化はない。と言うか、今更生活に影響のあるような変更は出来ないというものだろう。今までの定義がいくら厳密に管理しても管理しきれない「原器」によるものだったから、極めて厳格に見れば日常生活に影響する部分もあるかもしれないが、実際のところそんな厳密な秤を使うことはない。ところがそのニュースでは、街の秤を使う人に秤の精度のことを聞いて回っているのだった。

計測方法や計測精度の話を定義と取り違えているのは、科学的定義が案外身近なものではないということが背景であろう。1秒とは何か、円とは何か、1kgとは何かなど、普段から考える必要はない。それでなんら支障はないのだ。キティちゃんの体重がりんご3個分だったのをレモン5個と言うようになっただけで、キティちゃんの体重には変化がないのである。

 どうでもいい?ところが技術屋にはどうでもよくないのである。これを間違えるようだと、出来上がったものには必ずトラブルがついて回るのだ。1kgのような普遍的に使われる定義だけを言っているのではない。キティちゃんの体重をリンゴ3個と定義したなら、それは厳密に3個であって、途中でレモンに変えてはならない。どうしても変えたいのなら、リンゴをレモンに変更するための定義をしなければならない。そういうものである。これが出来ない政治家あたりがわかった風に語っていたりすると、技術屋は小さなため息をついて、案外憂鬱になったりするのだ。

※ 予約投稿のためオンラインではありません。