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A day in a bookshelf ~本棚の陰から

TropicThe text was written only in Japanese.

本を選ぶことは旅先を選ぶことに似ている。エメラルドグリーンから透明なブルーへの淡いグラデーションの海とパステルピンクの壁が輝くホテル、明るい赤と白のパラソル、サングラスをかけて寛ぐ人々、そんな写真を雑誌で見つけて次の休暇はカリブにしようかと考える。パラソルに付けられたスポンサーのビール会社のロゴさえもが旅に誘う。そうやって想いを巡らすと同じ様に、カリブの文化を記した本が読みたくなったりもする。カリブの海を舞台にした海賊小説はどうだろうと考える。北アフリカの朽ちたローマの史跡の映像を見ながらローマ史を知りたくなる。たくさんのひまわりを見てアンダルシアを想像するように、本の表紙の暗い影に中で自分を待ってくれているスペクタクルを思い描く。

旅行代理店に並べられた世界中の魅力的な旅先をこれでもかと主張するリーフレットを眺めながら、ふと、思っても見なかった旅先のリーフレットを手にするように、新聞の片隅にあった小さな広告に普段は読むことのない作家の小説が読みたくなることもある。こんな食事がしてみたいというのも旅の立派な理由になる。世界中の食材が手に入るようになっても、産地で食べる食事は味付けも調理法もサーブの仕方さえも違う。だから、原語で読みたくなる本もあれば、ニュアンスや音までも流麗に訳した翻訳で読みたくなる本もある。母語でないがゆえに分からない単語や表現に悔しい思いをするのは、旅も翻訳も同じである。かつて、真面目な技術論文の中に亜空間旅行への言及があるのを見つけ、そんな非現実的なことまで受け容れるとは懐が広いなと感心したことがある。だが、後になってそれがスタートレックへのオマージュだと気付いた時には、どうして最初にわからなかったのかと悔しい気持ちにさえなった。そんな風に、食材のちょっとした違いも店先の会話も、もう少し分かればと気になるものである。自分の慣れ親しんだ味で食べたい時もあれば、地元っ子が味わうそのままで驚きたいこともある。それが旅の楽しみであり、読書の楽しみであろう。

20121125-003今、あなたはセーヌ川沿いの歩道をのんびり歩きながら風景を楽しんでいる。ふと見れば、古書店が軒を並べる一画がある。暫く歩けば小さな市場もある。セーヌ川そばの古書店をめぐり本をのんびりと探す人びとを見て、朝市でアーティチョークを前に話し込む人を見て、フランスの生活はどんなだろうと思うなら、

それでも住みたいフランス (未紹介)
飛幡祐規 著

を手にとってみるのも良い。フランスの良いところも悪いとこも愛情たっぷりに描かれている。都会が苦手というなら南フランスの田舎はどうだろう。

プロバンスの12か月 (未紹介)
ピーターメイル 著

は、のんびり読むのに最適だ。ほんの少しだけしつこくない程度のスパイスを加えた文章が、プロバンスの田舎暮らしを鮮やかに描き出す。住んでみなければわからないのだろうなと少々悔しくもあるが、そのくらいがちょうど良い。住んでしまえば主観が入ることは避けられない。本は、読者に想像する自由を与えるものだから。

libreヨーロッパに住む人は、学校でラテン語を習ったりローマ史を習ったりするのだろう。会話の中にカエサルの言葉を入れたりすると、知っているのかと尋ねられたりもする。そりゃ、賽は投げられたくらいは知っている。だが、越えた川がルビコン川と知っているかどうかは興味があるかどうかによるかもしれない。パリがローマ時代以前からの集落であって、カエサルが駆け抜けたガリアの一部であるなど、アジアの片隅からは遠い話だ。そうであるに違いないが、北アフリカや中東、あるいはスペインやフランスに残るローマの史跡を見ると、ローマ時代がどんなだったか知りたくもなる。さすがにカエサルの

ガリア戦記 (未紹介)
ユリウス・カエサル 著

は最初に読む本でもないが、辻邦生の

背教者ユリアヌス (未紹介)
辻邦生 著

なら史実をベースに脚色された大河小説として楽しむことができる。もちろん、塩野七生の

ローマ人の物語 (未紹介)
塩野七生 著

なら読みでもある。そうやってローマを旅しはじめたなら、

生き残った帝国ビザンティン
井上 浩一 著

monacoあたりも読んでおきたい。飛行機で飛び回るよりもひょっとすると速く世界一周できるに違いない。もちろん、ここでの世界一周はローマ時代の話。ローマが事実上のCaput Mundi(世界の首都)だった頃の世界は、今より物理的には少々狭かった。だが、狭かったといっても飛行機があったわけではない。ならば、随分とお得ということだろう。ついでに言えば、時間旅行も付いてくるのだから、本の数冊はかなり安い。

意外に意識は無いが、イギリスもかつてはローマの一部だった。さすがのローマもグレートブリテン島全てを支配することは無かったが、北と南を分ける防城を作ることはしたらしい。ローマ世界とその外の世界の間には必ず砦を築いた彼らだから、それはあたりまえのことだっただろう。とはいえ、補給線の伸びたローマの果ては長続きしない。そうして、中世世界になって行く。

落日の剣
サトクリフ 著

は、歴史書では無いが、そんな世界にも我々を連れ出してくれる。

折角ヨーロッパツアーを始めてみたなら、分かっているようで分かっていない十字軍と共に旅するのも面白い。今だから出来る旅というのがあって、当時だったらとても同じことをできそうにない。

十字軍騎士団 (未紹介)
橋口 倫介 著

あたりでまずは全体を把握したほうが身のためである。ただ、これを読んで決意を固めたなら、次に読むのは

アラブがみた十字軍 (未紹介)
アミン マアルーフ 著/牟田口 義郎、 新川 雅子 訳

だろう。何事にも両面がある。世界を知る時には重要なプロセスだ。

parisセーヌ川沿いを散歩しているうちにいつの間にか時空を超えてしまった。パリに戻ろう。戻ることなど簡単なことだ。本棚から別なものを抜き出してくるだけだ。途中で100年ほど前のパリに立寄るのも悪くない。ふたつの世界大戦に揺れ動くパリ。万博に湧き立つパリ。エッフェル塔の建設。たとえ時空の旅人であっても、そこに住む人々、世界の都に移り住むひとの目を通して旅は出来る。

Paris France
Gertrude Stein 著 (Peter Owen Modern Classic)

あるいは

フランス組曲
イレーヌ ネミロフスキー 著/野崎 歓、平岡 敦 訳

そんな本を引き出すだけで良い。
少しヨーロッパに長居しすぎたかもしれない。ドイツの古城をライン川から眺めてみたいし、ハンザ同盟の街並みを見ながら

道化師 (未紹介)
トーマスマン

でも読むのも悪くないが、そろそろヨーロッパを離れるべきだろう。世界はまだ広がっている。まだ見ぬスペインは

バルセローナにて
堀田 善衞 著

あたりを読むことにして、コーヒーで世界を知るのはどうか。

最近、コーヒー豆の原産地を見ると、かなりの確率でベトナムと書いてある。コーヒーと言えば中南米かアフリカのイメージが先にくるが、ベトナムは意外に知られていない。だが、ベトナムはまさにいわゆるコーヒーベルトの中にある。バードフレンドリーとかフェアトレードとかそれ自体の賛否はあるだろうが、少なくともベトナムのコーヒーはそうした政策的意図とは切り離せないものとして生まれたものとされている。世界をどう変えるかなどと大上段に構える必要はないが、たとえ一面的であってもコーヒーひとつからベトナムの抱えていた問題を知ることで旅は少し違ったものになる。

コーヒーの真実―世界中を虜にした嗜好品の歴史と現在
アントニー ワイルド(Antony Wild) 著/三角 和代 訳

は、どうも納得のいかないところも多いが、分かりやすい旅の地図にはなるだろう。ビルの設計をしている知人がかつて「地図はあくまでも概念だから、地図と実際の道が違っていてもよい」と言い切って道に迷っていたことからすれば、そんなものだと割り切れる。初めての土地を旅するには、地図はその土地の一面を表す記号であれば良い。初めての場所なのだから、たとえ地図が科学的に正しく描かれていても、迷う時には迷うものなのだ。もっともビルの設計が、あくまでも概念だとすると、ちょっと不安を感じないでもない。その事だけは、知人のためにも告白しておかなければならない。

たとえ社会的な背景がそこにあったとしても、そうしたことを原動力に進むアイデアにはポジティブなエネルギーを感じものである。休みごとに世界中を旅してまわっている同僚は、最近は行くところがなくなったのか、はたまたそれが好きなのかはわからないが、たどり着くだけでも2日はかかりそうな場所ばかりを訪ねている。お土産屋さんがなかったから乗り継いだ空港のお土産ねと言ってベルギーのチョコレートを買って来たりするが、お土産屋さんがないような場所であっても、戻ってくるとすっかり元気な様子で、なにかしらエネルギーをもらってくるのだろう。エネルギーはアイデアを生む。

世界を変えるデザイン――ものづくりには夢がある (未紹介)
シンシア スミス 著/槌屋 詩野, 北村 陽子 訳

バカンスに美術館巡りを計画する人はそこそこいても、科学博物館巡りを組む人は少ないだろう。ずいぶん前に、ルーブル、オルセー、ハンブルク、ノイエ/アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)…などと順番を決めて大きな美術館ばかりを回ろうとしたが、どうやってもベルギーには立ち寄れないとか、小さなところにも寄りたい場所があるとか、いろいろと考えるところがあって諦めたことがある。それでも美術というのはよくしたもので、いつ頃の作品だとか、ナントカ派だとか、画家の生い立ちがどうだとか、そんな事は一切知らずとも気に入ったかどうかだけで見て回ることができる。この色の組み合わせが綺麗だなどと面白がるだけでも良い。時間が余ったら美術館に立寄るくらいでも十分楽しめる。ところが、科学博物館とか文学館となると、多少頭を回転させなければならない。フーコーの振り子など、余程根気がないと動きが分からないだろうし、パタンとマーカーが倒れても次の瞬間には何故そうなったかを考えなければならない。多くのひとは振り子が揺れているのを見て満足する。あるいはトーマスマンの作品をいくつか読み、作家や作品に興味をもっていなければ、ブッデンブロークハウスでその佇まいや原稿を見ても、ただ、ふーんとなるだけである。以前、X線を扱ったことがあるので観光でヴュルツブルクを訪ねたついでにレントゲンの家なるものにも立ち寄ってみたが、別段壁の向こうが透けて見えるわけでもなく、生い立ちにでも興味がなければただの建造物であった。

そうやって考えてみると、絵画と違って、科学技術や思想・哲学といった領域は歩いて巡るというにはあまり向かないのだろう。旅のコースをある程度決めたら、その範囲で可能なところに立ち寄る程度が好ましい。最近話題のナントカみたいなものをいくつか回ろうというのは、むしろ苦痛となりかねない。ところが、一方でそんな類の本がないわけではない。そこがバーチャルツアーを可能とする本のよいところで、

知の逆転
吉成真由美 インタビュー・編

は、半分でも興味があれば、お得な旅と言えなくもない。そういえば、

The Zen of Steve Jobs
Caleb Melby, Forbes LLC, JESS3

もカリフォルニアの空気を吸ってみるより、ずっとそれらしい雰囲気を味わえると感じるかもしれない。

頭の中を旅することになる次も面白いだろう。結論を求めるむきには少々いらいらするかもしれないが。

妻を帽子と間違えた男 (未紹介)
オリヴァー サックス 著/高見 幸郎、 金沢 泰子 訳

カリフォルニアまで来たものの、アメリカ大陸をスキップしてしまうのも心残りである。あまり紹介できることもないが、少なくとも1冊だけは挙げておきたい。大江健三郎や中上健次にも影響を与えたとすれば訪ねてみたくなる。

予告された殺人の記録 (未紹介)
G.ガルシア=マルケス(Gabriel Garc’ia M’arquez)著/野谷 文昭 訳

の街は実在するらしいが、どこまでも暑くて重みを感じる風が吹き続けるカリブのリゾートではない現実的な生活という点では、どこかひとつの街ではなく、だれもがそれぞれに知るどこにでもある街ということだろう。なお、架空の都市ということであれば

都市と都市 
チャイナ・ミエヴィル 著/日暮 雅通 訳

もまた、訪ねるに値する街だろう。ただし、訪ねる時は覚悟をもって。

sankeienn


日本に戻るころあいになった。

住む場所となると、案外旅先に困る。行ったことのない場所を自然と探してばかりいて、ここは大分前だから忘れてるとか、ここは雨で立ち寄らなかったとか、そんな言い訳を見つけてホッとしたりする始末である。知人が訪ねて来て、「あそこには行ってみたいと思っていたが叶わない。あなたは、さほど遠くないところに住んでいるのだから何度も行っているだろう。羨ましい。」などとつぶやいたら格好のチャンスだ。何度も行ったことのある見慣れたいつもの場所は、突然、行ってみたい旅先リストの上位に急上昇である。「今度、ご一緒しましょう。」などと即座に答えかねない。ところがである。その後が困ったりするのだ。はて、横浜開港の時には果たしてペリーは上陸したのかなどと余計なことを考え始めて、自分が案外知らないことに気付いてしまう。日光の杉並木を見ながら、例幣使街道との違いを問われ、答えに窮する。まして、生まれ育った街の説明を間違え、客人にやんわりと訂正でもされたらどうにも逃げようがない。得てして、興味を持った客人のほうがずっと詳しいものである。やがてその客人が近所に移り住み、その土地の人となったなら、その時には素直に教えを乞うたほうが良い。地元に住んでいる者がその土地を一番知っているなど時に幻想みたいなものだから。

であれば、こんな本は読んでおきたい。分からないところがあったら学びなおそうなどと考える必要はない。それ自体が鑑賞に値するものだから。

百代の過客 日記にみる日本人
ドナルド・キーン 著/金関 寿夫 訳

もし、どうしてこんな作品がと感じたら

ドナルド・キーン自伝
ドナルド・キーン 著

も悪くない。戦争時代とその後の日本を歩いて回るのは少しばかり気が重いこともあるが。

さて、美しい日本語で書かれた日記を読めば、次は未来の日本語も読みたくなる。もちろん、それにはふたつの目的地があって、その様相はだいぶ異なっている。未来のひとつが見たければ東京の湾岸地域を見ても良いだろうし、渋谷の交差点を渡ってもよい。未来のロサンジェルスのイメージが「ブレードランナー」で千葉と重なりあったように、裏通りの旧い建物とその先にあるおしゃべりな自動販売機に未来を見ることもある。決して新語が溢れるネットワークの広がりが未来の日本語ということでもない。制約のある言語の海から新たな表現を探し出すこともまた伝統の中に揺らぐ未来でもある。

マッチ売りの偽書
中島 悦子 著

を開いて見ればよい。それはそこにある。


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A Book: フランス組曲

201402-060This article was written only in Japanese.

毎朝のコーヒーのように身近なことだというのに妙に現実感がないということがある。毎日通る交差点で起きた事故は、決して他人事ではないが、新聞の隅に小さく出ていても他人事だと気に留めない。それは、いつの間にか、通り過ぎて行く交差点でしかなくなっている。増税のような生活に直接関連する話題であっても、それは縁遠い政治の話であって、何処かで無関係のように感じている。そんな類の事である。きっと、日々の出来事とはそうしたものなのだろう。毎朝のコーヒーだって、しばらくすれば他人事のようにその味を思い出すことだって難しい。

逆に、遥かな時と場所の彼方にある出来事が、どうしたことか目の前で起こっている事のように思えることもある。もちろん、それは刹那的な感覚であって、ずっとそう感じているわけではない。だが、その瞬間だけは、現実の今にありもしないことにやるせなさを感じたり、時は恐怖を感じたりもする。だから映画も小説も成り立つのだろう。多くはその場限りの感覚だから、ふと我にかえることもあるし、時に騙されたような不思議な気持ちになることもないではない。それでも瞬間的には目の前にないものをそこに感じている。

ナチスドイツのフランス侵攻は、そうした意味でははるか遠い出来事の類である。当事者であるフランス人にとっても、忘れ得ぬ出来事ではあっても、今や歴史の一部としか認識できない人も多いだろう。あれから3/4世紀が経過しているのだから。ところが、そうした時間の経過があってもなお、パリからの脱出はそこにある。まるで、それを見ているかのように。もはや正常に機能する事など期待できない駅に詰めかける人々、脱出の時にあってなお日常に振り回され過ぎていく時間、夜の帳。風景は普通のそこにある人々と共に過ぎていく。

それは、作家の奥に潜む創造された世界が紙の上に置かれたインクの染みとなって現れたものなのか、インクの染みが世界中の読者の頭のなかに投射された映像なのか、あるいは、紙の上のインクであれ何であれ、現実にそこにあった現実なのか。それは、その全てであるからこそ目の前にあるように感じるのだろう。つまり、作家としての多面的な創造力と揺るぎないペンの力と現実とである。想う力が無ければそれは生まれず、想うことを文字として表現する力が無ければ読者には届かず、辛い現実があればこそ今以てここに読者があるのだ。もちろん、その時代を覆い尽くした暗黒の空を知ることなく、今も変わらぬ人々の営みのみをもって作家に身を委ねたところで、その価値は何ひとつ変わらないだろう。読者は作家の強いペンの力のみを頼ってそれを読めば足りるに違いない。それが世界中に訳され出版された作品というものである。その上で、少しでもその時代を知った時、それは強い現実となって目前に現れるのだ。

父は別れ際、長女ドニーズに小型のトランクを託した――「決して手放してはいけないよ、この中にはお母さんのノートが入っているのだから」

売り文句には、そう書いてある。恐らくは、このひと言が作品を物語る最も効果的な表現のひとつであるだろう。何故、ノートをノートの入ったトランクを手放してはいけないのか。ドニーズは何を託されたのか。ドニーズに託さねばならなかった、別れなければならなかった父と娘はどこに行ったのか。売り文句としてあるその言葉は、この作品そのものに書きこまれたストーリーですらなく、作家自身のおかれた境遇として解説に書かれた、作品の背景そのものである。そんな作品の背景が重要となるほどに、作品は想像と事実、創造と破壊からなる重層的な構成を現す。

構想の2/5しか完成させることの出来なかった作品の読後には、未完の不安感も完成された安心感もない。それは確実に完成されているし、その一方で、完成したというには落ち着かない、終わりの見えない焦燥感のようなものが残される。だから、恐らくは、妙な現実感を感じるのだ。

作品の後に続いて収められた書簡類は、想像と現実の境界をさらに曖昧にする。解説を含め、いっきに読み切りたい。分厚い本であるが、その価値はある。そうせざるを得ない。何かに背中を押されているかのように。

最近読んだ本

フランス組曲 (白水社)
イレーヌ ネミロフスキー 著、野崎 歓、平岡 敦 訳

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A Book: 生き残った帝国ビザンティン

20131221-001This article was written only in Japanese.

日本からヨーロッパは遠い。飛行機で10時間以上も薄っぺらな椅子に縛り付けられ、あちこちに体をくねらせて少しでも楽な姿勢を探しながら、やっとの思いでたどり着く。身体中に鈍い痛みのようなものを感じながら降り立った空港のその風景は、時に、それが関東平野にあって広々とした平面に引っ掻き傷のようにあったはずの成田空港と比べるまでもなく、終わりがあるとも思えない広がりを表す。そうして長旅の後には多くの言語が溢れ、あたりまえのように染み込んでいく。

これがアジアとなると、幾分かその様相は異なっている。地理的に近いということもあるだろう。見慣れたとまで言えなくとも、何処と無く日本で身近に見る目が、そこでこちらを見ていたりもする。実際に物理的に近いかどうかといった事だけではなく、文化的な背景に近い部分も含めた近さのようなものを感じることもあるだろう。風景の中に似た植生を見つけるといった環境面も無視できない。

では、トルコはどうか。ボスポラス海峡に分かたれたその国は、近いのか、遠いのか。

青く澄んでその深みを知るも難い輝く空を背景とし、さながら大河のように白波をたてて流れる海を前景として、重厚な中にも華やかさをもって佇むモスク。荒涼とした大地に2000年の時を経てなお賑わいを感じるローマの街並み。果たして地球上の風景かと目を疑う地上から突き出す大地。写真で見るトルコは、アジアの東の果てからは、はるかに遠いエキゾチックな風景を織りなす。だが、それでもなお、トルコは地理的にも文化的にもヨーロッパとアジアの両方に位置している。それは、かつて、東西には香辛料や絹を運び、南北には宗教をも運んだ場所であり、今、ボスポラス海峡にかかる橋は、同時にヨーロッパとアジアに架かる橋でさえある。

かつてコンスタンティノープルと呼ばれたその要の街は、今はイスタンブールとして世界からバカンスのデスティネーションとなっている。コンスタンティノープルは、コンスタンティヌスの街という意味であり、紀元330年のローマ時代にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、旧い街を元に壮麗で強固な街として造りあげたと歴史の授業で学ぶ。やがて、ローマ帝国は東ローマとなり(後世の便宜上の名前ではあるが、西ローマ滅亡後を区別する名としての)ビザンティン帝国となって、ついにはオスマントルコに敗れると。

アジアでもあるイスタンブールが日本から遠く感じるのは、物理的な距離もさることながら、それ以上に、このような歴史観が背景にあるような気がしてならない。確かに高校の授業では、欠かすことの出来ない歴史の一部としてビザンティン帝国を教えている。だが、その量は決して多くはない。輝かしいローマ史が下降線を描く中で、キリスト教を国教として国の維持をはかったコンスタンティヌスまでは、地中海世界の勢力図の変遷として、あるいは多神教からキリスト教への変遷として、あるいは寡頭制といった政治制度として、様々な視点から手厚く学ぶ。その後は、ローマの滅亡とその後を引き継ぐビザンティン帝国、十字軍、そしてオスマントルコである。ゲルマン民族の移動は多くの人が記憶するが、ベネチア共和国を軸とした交易の歴史には多くの時間を割くことはない。ベネチアに触れるなら、寧ろ、十字軍よる占領とスペインとの交易覇権の争いにおいてである。ビザンティン帝国は、多くの人にとって、ヨーロッパ史の記憶の隅に僅かに残る程度でしかない。だが、ビザンティン帝国は千年にもわたって続いたのである。

なぜこうも歴史ある帝国が名前程度しか記憶されないのか。その答えは、「生き残った帝国ビザンティン」に書かれている。正確に言えば、もちろん、答えなど書かれているわけはない。少しでも興味があって、名前以上の知識があれば、高校の教科書程度の背景が理解さえできれば、ひょっとすると同じ感想を持つ人もいるのではないか。そう思うのである。ビザンティン帝国は紛れもなくローマ帝国の末裔であり、同時にアジアでもある。この、アジアである事の背景だけでもビザンティン帝国の意味合いは違ってくる。教科書で学んだビザンティン帝国は、ヨーロッパ史としてのビザンティン帝国であって、もちろんアジア史の一部ではない。その見方は果たして真実を伝えきっているのか。ひょっとすると、ビザンティン帝国の中、あるいはアジア側から見たビザンティン帝国は、高校で学ぶギリシャ色の濃いローマの末裔やアジアからの防波堤としてのキリスト教国とは異なっているのではないか。そうした疑問を覚えながらイメージが変わっていく。高校で学ぶあまりに薄っぺらなビザンティンは、恐らくは、西ヨーロッパのフィルタを介して見る主旋律の装飾に過ぎないのだ。もちろん、このような見方は、著者の意図とは違うだろうし、そもそも意味を誤解しているかもしれない。此処に書いた個人的な感想が怪しい駄噺でしかない事は、正直に記しておく。

ある意味、学術書なのだろうが、ドキュメンタリー小説のように読むことが出来る。裏返せば、どこからがフィクションか分からなくなりかねないが、そうなったらビザンティンに入り込んだという事。それはそれで良い。ならば、日本からヨーロッパへの飛行機で読むのも良いだろう。ましてイスタンブール行きならイメージも膨らむというもの。とは言え、ビジネスクラスでの移動ならという条件付きではある。身体をくねらせながらの苦行の最中に読むには、少々中身が濃すぎるからだ。できれば、ヴェネツィア発イスタンブール行きの船上で、パラソルの下、風に吹かれながら読みたいものである。

最近読んだ本

生き残った帝国ビザンティン (講談社学術文庫)
井上 浩一 著

妻を帽子と間違えた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
オリヴァー サックス 著、 高見 幸郎、 金沢 泰子 訳

アラブがみた十字軍 (ちくま学芸文庫)
アミン マアルーフ 著、牟田口 義郎、 新川 雅子 訳

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A Book: バルセローナにて

バルセローナにてそもそもヨーロッパ史は単純ではない。中高生に教えるいささか単純化された歴史は、それをよく知っている人にはよくまとまっていると思えても、恐らくは、学ぶ側から見れば単純化され過ぎて意味不明なところが多いだろうと思う。重要な事件は書かれても、その事件がおきた背景はひとことだったりする。曰く、「重税に不満をもった群衆が蜂起し王は幽閉された」の類である。そこには重税の背景も他国の侵攻も書かれない。10行前に隣国の貿易による台頭は経済状況として触れられているし、直接の原因ではないからだろう。残念なことに、多くの中高生にとっては、その事に気付くのはずっと後になってからだ。テレビのクイズ番組で見たとか、旅行の予定があるので少し調べたとか、何かのきっかけで興味をもったことで歴史の意外な背景を知るといった類である。

ヨーロッパ史にはなかなか理解が難しい部分がいくつもあるが、広範囲におよぶローマ史などよりも、スペイン史やハプスブルク家にまつわる歴史のほうが、ずっと難解だと感じている。例えば、必ず教科書に出てくる神聖ローマ帝国皇帝カール5世(Karl V.)がカスティーリャ女王フアナの子であったり、スペイン史にイスラム文化やケルト文化が登場したりすると、地理的な知識と混じってわけがわからなくなるのもうなずける。スペイン史と「幸いなるオーストリアよ、何時は結婚せよ。」は、そう簡単には結びつかない。

その上、観光ガイドはこう告げる。「スペインはスイスならぶ山岳国家である」と。まぁ、確かにそうだろうなと思わないこともない。フランス国境に横たわり、スペインをむしろアフリカと結びつけたがるピレネー山脈は、雪を頂く厳しい環境である。時にツール・ド・フランスの山場のひとつとなる。実家がピレネー近くという知人が言うには、谷間の村がとても綺麗でバカンスを過ごすには良いところだそうだ。

そんな背景を知って最初の「アンドリン村にて」を読み始めると、その厳しい自然描写とお節介だったり一風変わっていたりする人々の様子とが、鮮やかにイメージされてくる。雨と霧が覆う山岳地域は夏でも急激に気温が下がり、一方でアンダルシアでは40度の熱風が大地を覆う。思いのほか多民族であるスペインの小さな村は、美しくも微かな影を抱く。そこに住んでみたいという堀田善衛の想いは、読者をも同じ気持ちへと誘う鮮やかさである。

そうして作家に誘われ、小さな村のささやかなスペイン滞在を楽しみながら、読者はそこに暮らす人々と交流し、時に戦争の惨禍を思い描き、時間をも超えて行く。次の街はグラナダである。いや、正しくはグラナダなどではない。もっと大きな光と影と言うべきである。そう気がついた時、読者は完全に堀田善衛の見る世界の中にいる。

これ以上はここに記載すべきではない。もし、まだ未読なら自分で読んで感じなければならない。そうしなければ、この作品の魅力は恐らくわからない。文庫化されているから少しでも興味があれば読まれたい。コーヒー1杯の価格でできるスペインツアーは、普通のスペイン観光よりは、少々影が濃い。

 

最近読んだ本

バルセローナにて (集英社文庫)
堀田 善衞 著

Books

A Book: コーヒーの真実

20130831-001時にナッツやフルーツを思わせる香り共に、苦味の背後に舌の奥に感じる酸味とかすかな甘みをたたえ、僅かに赤みを帯びた黒い液体は、世界中のテーブルの上で様々な思いを支えてきた。その歴史はいまだ詳らかではないが、古い伝説から現代のうんざりするようなビジネスの場まで、それは脇役としてあらゆるものを見続けてきた。世界中の街かどで、コーヒーは遥か遠くの風景さえも運び続けてきたのだ。そしていま、それは、苦味を包みこむミルクとともにアメリカ西海岸の空気をも運んでいる。つまり、Wi-Fiアクセスポイントと小さな仕事場と巨大飲食チェーンのフレンドリーな笑顔である。

テーブルに置いたコーヒーの深い色には、実際のところ、様々な要素が溶け込んでいる。伝説の一部を為すカフェインは、朝のひと時を爽やかにするかもしれないし、単にその場しのぎのリラックスと将来へのリスクが混じり合っただけの黒い液体でしかないのかもしれない。先日も一日4杯のコーヒーは寿命を縮めるという記事がネットや新聞を騒がせたが、少し前は適度なコーヒーが健康によいとも報道されていたはずである。

その淹れ方もまた然り。ペーパーフィルタはコーヒーの油分を奪うがフレンチプレスやネルドリップはそうした問題がないという人もいれば、サイフォンが最適だと主張する人もいる。エスプレッソはコーヒーの美味しいところを短時間で抽出すると誰かが語れば、それは上手く淹れられた時だけであって多量のコーヒーをサービスするためだけの機械にすぎないと反論する向きもある。時にはトルコのような鍋で淹れるのが正しいとか、飲んだ後の占いまで出来るとか、1杯のコーヒーの淹れ方だけで議論が巻き起こる。

そして、銘柄が生産地と共に語られるのもまたコーヒーである。テーブルに置かれたコーヒーの中には、世界さえもが詰め込まれている。ブラジル(Brasil)はサントス港(Santos)から積み出される豆は甘い香りを残し、キリマンジャロ(Kilimanjaro)の名で知られるタンザニア(Tanzania)の豆は強い酸味を残す。注文する銘柄を考えながら、そこに感じるのは世界の風景となる。モカ(Mocha、المخا)と聞いて誰もがイエメン(Yemen)を想像するわけではないだろうが、確かに世界がそこにある。横浜の港のそばのカフェで飲むコーヒーが、それを意図するか否かは別にして、ブラジルやキリマンジャロに思いを馳せるきっかけにすらなるのだ。

世界に思いを馳せながらこうも考える。ハワイ(Hawaii)のプランテーションにおけるコーヒー生産に日系移民はどのくらい関わっていたのだろうかと。そして知る。19世紀末にプランテーションと厳しい条件で契約しそれを支えた彼らが、世紀末におこったコーヒーの暴落で破綻した農園の一部を買い、その小さなコーヒー農園が今もハワイコナの一部であることを。アメリカ大統領就任式で供される伝統のコーヒーは、そうした歴史の一部を成しているのだ。

そうした政治と植民地主義的な歴史は、現代のコーヒー生産の一部を支えるベトナムにも及ぶ。一体、どれほどの人がベトナムとコーヒーを結びつけて考えるかわからないが、街のコーヒー販売店でそれは簡単に入手出来る。フェアトレードとう耳心地よい響きは、どこかで後ろめたさを感じる響きでもある。

恐らくは、アントニー ワイルドは、本書の最後にあるコーヒーにまつわる現代の問題点を書きたかったのだろう。そこに書かれた内容がどこまで正しいかは読者が自分自身で調べるよりほかはないが、そこに至る歴史を記す前半は、歴史の読み物として十分に面白い。実に、植民地時代からナポレオンの時代を経て現代に至るまで、コーヒーの歴史を書きながら、それはヨーロッパ史であるかのようである。300ページに小さな字でぎっしりと余白がもったいないと言わんばかりに詰め込まれた時代は、コーヒーを片手に読むには多すぎる分量だろう。読んだ後で、誰かとカフェで薀蓄を語るにはよいかもしれないが。

最近読んだ本

コーヒーの真実―世界中を虜にした嗜好品の歴史と現在 (白揚社)
アントニー ワイルド(Antony Wild) 著、三角 和代 訳