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A Book: われらの時代

201408-098This article was written only in Japanese.

何もかもどこか不足しているような気がして、慌てて辺りを見廻してみてもそれが何か見つからない。何もかも満ち足りているようでいて、いつも何かが欠けている。そのような時代と時代の隙間に時を過ごし、どこかに逃げ道の言葉を探し続ける。

熱せられた暑い夏の昼下がりの階段。閉め切られたファストフード店のガラスドア。20年続いた喉の渇きは、結局は誰もが何かをせず、誰もが少しだけ便利になっただけの時の隙間だった。

ひとは何かを探している時、饒舌であることより寡黙であるほうが難しい。まして、それが何か分からないなら、沈黙は苦行となる。誰かに聞かずにはいられない。
「何てことはない。それならその角を曲がった先だよ。」そう誰かが言う。たった今、見知らぬ角をひとつ曲がったばかりだというのに。
分かったような顔をして曲がったその角は、振り返ってみてももう分からない角だ。時は、そこに過ごす人よりずっと速く流れ、振り返った角はもうどこかに行ってしまった角だ。やがて記憶が薄れ、その角を曲がったことをようやくシルエットのような曖昧さで思い出す時、それはようやく見知った角となるのだろう。そうして時代にひとつ区切りがつく。

定期航路でもない限り、沖に出る時、船乗りは桟橋を振り返る。置き忘れてしまったものを探すために振り返る。置き忘れたものは使い慣れた道具でも荷物でも言葉でもない。桟橋の風景そのものだ。桟橋の上で見た景色ではなく、桟橋そのものを振り返るのだ。
桟橋の上で見た景色は、やがて意味のない風景へと変わるだけだ。沖に出てやがて戻って来た時、桟橋で釣糸を垂れていた少年も、荷物を忘れたと言い争っていたカップルも、もうそこにはいない。注意深い目で見つけた桟橋の杭に群れる魚も、そこにはいない。桟橋の上で思い出した用事は、それまで忘れていたことが当然であったように、またどこかに忘れ去るのだ。
だから沖から振り返る桟橋は、桟橋でみた風景ではなく、桟橋そのものだ。振り返ったそれは、出港した桟橋ではなく、見知らぬ曲がり角を曲がったばかりのように新しい。先ほどまでいた場所は、もはや過去の記憶のように消え去り、ただ、港の沈黙がそこにある。その黙りこくった港の景色を見るために、桟橋を振り返らなければならない。その風景こそが沖から帰る時に探す風景なのだから。

急な雨に急いで開いた傘。傘の影にすれ違ったことに気づかない邂逅。恐らくは二度とない出会いは、誰もが気に留めない出会いでしかない。

人それぞれの持つ時計が正確に時刻を刻むのとは裏腹に、人それぞれの時は、少し時代と違った進み方をする。だからある時思うことがある。どこかに何かを失くしたと。本当に失くしたものはそれぞれの思う時代なのかも知れないが、誰も答えは教えてくれない。
「何てことはない。それならその角を曲がった先だよ。」

 

簡潔でドライな文体は、ハードボイルドの原点だと言われる。ぶつ切りの短文が続けざまに解き放たれ、多くの渇いた石ころが集まって、感傷を嫌う風景を構成する。何を今更古典に触れるのかなどと思う必要はない。未だ、これほどまでにドライな文体はない。だが、そのドライな文体は、時にたったひとつの形容詞で感傷を表す。長編のほうが恐らくは読まれているのだろうが、研ぎ澄まされた表現力は短編で光る。もし、ヘミングウェイなど今更というなら、短編が良い。断片化した今の時代だからこそ、思うところも多いだろう。

最近読んだ本

われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫)
アーネスト ヘミングウェイ 著、高見 浩 訳