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A Book: 都市と都市

books-cityハードボイルド小説かと思うような前半だけで、映画化はいつかと調べたくなる「都市と都市」は、ハヤカワからSFとして翻訳が出版されている。よく考えたら絶対にありそうもない状況に、恐らくは一切の疑問を持つこともなく、一気に読了してしまう類の稀有なSFである。そもそも、SFと書きながら、本当にSFと書くべきかどうか迷う。異なる2つの都市が、重なり合って存在しているという設定自体がSFであると言ってしまえばその通りだ。しかし、その特異な設定は、見事にリアリティを感じさせるまでに書き込まれており、読みながら疑問を感じるようなものではない。設定が、ヨーロッパのイスタンブールからもそう遠くない一都市としている(と思われる)ところが、さらにリアリティを増す要因となっているだろう。昔から言われるSFのScience Fiction とは異なる意味 Speculative Fiction とするのが分かりやすい。

この手の小説にこれ以上の説明を加える事は、明確なルール違反である。ルール違反は避けなければならない。ここまでが限界だろう。だが、これだけは書いておかなければならない。この特異な設定は、時に、ごく身近な構造でもあるという事だ。
重なりあう都市のイメージは、多重化され多層化された都会の生活にも似た、ある種のもどかしさを感じさせるものである。時に、隣に誰が生活しているかを知らず、それどころか、人が住んでいるかどうかすら知らない。街ですれ違う多くの人は、すれ違っても覚えていないし、すれ違ったことすら記憶に残らない。それでも、その一人ひとりには生活も固有の世界観もある。つまり、同じような周囲を感知しない状態は、すべての人が共通に持つものであり、複雑にたたみ込まれた複層的な状態である。それは、単純に都市空間の孤独感や無関心という言葉で括れるものでもなく、多層に重なりあう構造そのもののネガティブな側面でもあるだろう。

ミルフィーユのような甘い複層化された都市空間は、SFやハードボイルドには似合わないというところもあるのだろうが、それにしても、重なりあう都市は、それ自体が重いのである。

最近読んだ本

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)
チャイナ・ミエヴィル 著, 日暮 雅通 訳

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A Book: The Zen of Steve Jobs

boks-steveApple IIeは憧れで終わり、Macintosh plusが最初だった。SEを歴てMac IIfxあたりまでは、運が良かったのか、スポーツカーでも操っているかのようなプロの道具を使う満足感を味わうことがかなったが、Powerbookは再び憧れとなった。久しぶりに手にしたiMacからは、iPodやiPhoneとコンシューマ向けの製品を再び使い続けている。
そうやって、ひとつの会社の歴史を個人が語れる時、なにかしらその文化のいうなものがあるのだろうと考える。

先日、机の中を整理していたら、知人からもらった NeXT のロゴの入ったカードが出てきた。そんな具合だから、もともとスティーブ・ジョブスの生み出す製品が好きなのだろうと言われれば、その通りなのかも知れない。一方で、その文化のようなものに親近感を感じるからこそ、たまたまMacを使ってきたのであって、ジョブスとは直接関係しないのかも知れないとも思う。

ジョブスが亡くなって、多数の本が出版されたり再び話題になったりしたが、本当のところ、その理由はよく分からない。iPhoneは今も販売数トップの座にあるだろうが、Macとなると、シェアは大きいとは言えない。Appleの製品ラインナップは、一般的な世界企業と比較すれば多くはないし、それでも世界最高レベルの価値を持つ企業の経営方針を知りたい人が多いとも思えない。恐らくは、そんな会社を作り、成長させ、壊し、追われ、再び戻り、世界一にしたその人自身に魅力があるのだろう。

一般の人がジョブスのスピーチを愉しみにしていたとも思えないが、そのシンプルでどこかにストーリーがありそうなプレゼンに惹かれるというのもあるかも知れない。もちろん、バラク・オバマもそうであるように、ジョブスのプレゼンにはシナリオライターがいたことは、Appleに詳しい人であれば、衆知である。だが、ジョブスが描かれたシナリオをそのまま受け入れたなどとは想像できないし、そのような部分があったとしても、少なくとも、それを自分で納得しなければ使わなかっただろう。そうでなければ、あれほどまでにシンプルには語れなかったに違いない。
要は、生前から伝説であるかのように言われた人物に、人それぞれの興味があって、その人の背景となるもの、根底を流れるものを覗き込んで見たいということなのだろう。

ジョブスと禅との関わりがどれほど重要なのかは知らないが、禅が根底に流れる考え方のひとつではあっただろう。本書を覆う静かなトーンも、そのエピソードを思索の中に溶け込ませる役割を果たす。そのうち、円環をめぐるいくつかのストーリーも座禅を組む姿も、それが事実であるかどうかは重要ではなくなる。事実は彼方に追いやられ、そのトーンだけが通奏低音のように重みを増す。

結局、ジョブスに関しては、事実がどうであったかなど、取るに足らないことなのかも知れない。それが、文化であるならば、そこまで大袈裟な言葉を使いたくなければ、あるいはライフスタイルであるならば、事実を並べ分析した本は、まだ先でいい。

コミック嫌いがあっという間に読み終えたのには、何かわけがある。
和訳も出版されている。オリジナルがよければ英語も平易である。

最近読んだ本

The Zen of Steve Jobs
Caleb Melby, Forbes LLC, JESS3 著

予告された殺人の記録 (新潮文庫)
G.ガルシア=マルケス(Gabriel Garc’ia M’arquez) 著, 野谷 文昭 訳

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A Book: 落日の剣(Sword at Sunset)

books-sword「落日の剣」の舞台はローマの栄華過ぎ去って後のブリテンである。ハドリアヌスの防城はまだ健在であったろうが、すでに目的は失われ、恐らくは危うい平衡が崩れたことによる民族間の争いにより、多くの場所で崩れ落ちてさえいたのだろう。ただ、サトクリフはその過不足ない計算された描写力により、現実であったかのように1500年前のブリテンを我々の前に示すが、それは実際には現実ではない。モデルとなるアーサー王(King Arthur)は未だ歴史ですらない。実際に存在したのかしれないが、研究者は今のところその可能性を示す事実を積み重ねるのみである。それでも多くの人が、こうして誰もが触れることの出来る文として栄光と信頼、裏切りと死を描き、また多くの人が実際におこった歴史のように親しみを持って読もうとする。歴史の一部ではあっても史実ではないにもかかわらず。

果たして、アーサー王は本当に歴史が伝説となったものなのか。「落日の剣」はそれが愚問であると言っているようにも思われる。そこにはマーリンも現れないし、奇跡も起こらない。にもかかわらず、現実と非現実の境界線は曖昧で見えない。それは、境界そのものが、現代の人々が囚われたなにものかによって規定されているからか。かつてそこにあった「雨月」がその境界線なのか。

アーサー王伝説の舞台はブリテンだが、伝説となる世界は、現代で言えば、フランス・ブルターニュ(Bretagne)もその一部となっている。ブルターニュを旅していても、旅人には、あるいはそこに住む人にすらその気配を感じることはないのかも知れないが、確実にそれはある。何かの民族的な日であれば、例えばケルトの伝統が現れることもあるだろうし、マーリンの名前を言っても、地元の文化として自然に話がはずむこともある。現代ではフランスという異なる国家であってもである。

アーサー王伝説は、それが歴史であるかどうかにかかわらず、そこに確実に存在するなにものかである。感情やおかれた状況と葛藤しながら、時に得体の知れない何ものかに怯えながら、一所懸命前に進もうとするからこそ、伝説は歴史ですらあるのである。

最近読んだ本

落日の剣 (原書房)
ローズマリ サトクリフ(Rosemary Sutcliff)著、 山本 史郎, 山本 泰子 訳

中世騎士物語 (岩波文庫)
ブルフィンチ 著、野上 弥生子 訳