
今どき「結果がすべてだ」なんて言う人も少なくなってきただろうが、仕事をしていたら、結果に責任を持つべきである事は揺るぎない。それがプロフェッショナル、つまりは職業人として仕事の対価を得るという意味である。
正直言って、年寄りにはこの結果を言う人が多いのだが、これを単純に責めてはいけない。現在の50代以上は年功序列から成果主義の賃金体系になった犠牲者でもあるからだ。この結果というやつは、不断(普段ではない)の努力と偶然によるところが多く、加えて、結果を出した人間よりもそれを報告したやつが偉い事になっている。つまりはそうした努力や環境をまったく無視して結果だけを問う風潮(というより成果主義の誤解)により、納得性のない時代を生きてきたのがこの世代であり、それを若い人にも当てはめてしまうのだ。人間なんて、自分が見えるものしか信じられない生き物なのである。
海外生活を3年もしていれば、こうした誤解の馬鹿馬鹿しさが見えてくる。もちろん、ロンドンあたりなら日本人コミュニティの中だけで生きることもできるから気づかない事もあるのかも知れないが、よくある話は語学に関するものである。しかも、大人の話ではない。子供の話だ。つまり、日本から遊びに来た知人あたりに、
「xxxちゃんはすごいね。フランス語を話せるんだ。やっぱり3年も住んでたら話せるようになるんだね。」
なんて言われるのだ。ここではフランス語を話せるようになったことに成果がある。そして、それを自分と比較して凄いと思うのだ。
でも、海外で子育てをした多くの親はきっとこう思う。xxxちゃんは凄く努力したと。学校で生活するために、語学の補講も受けたし、宿題も辞書を引きながら頑張った。そんな頑張る子供のために親も頑張った。時には学校に電話して何度も確認し、毎日何時間も子供のためにフランス語の勉強をしたと。だから話せるのであって、3年住んでいたからじゃないと。
学校の三者面談で、娘のサポートをしようと頑張ってフランス語で質問をしたら、
「あー、お父さん、娘さんにはちゃんと話をしますから、お父さんは無理なさらないでよいですよ。」
なんて言われて、その後はフランス語の普通の速度の会話になった。だから、三者面談の内容はさっぱり分からなかったなんていう、笑うに笑えない話も聞いた。
住んでいたから外国語が話せるようになったわけではない。住む国で生きていくために母国語ではないその国の言葉を努力して学んだのだ。その点を理解しているかいないかの差は本当に大きい。たまたまフランス生まれで子供の頃に日本に引越し、また再びフランスに住む事になったフランス語の話せる日本人と、フランス語をはじめて学んでフランスに住む日本人とが同じようにフランス語を話す時、そこには結果だけではない部分がある。
もちろん、それでも、仕事の成果は出来たかどうかであって、努力しても出来なかったら意味はないと言われればその通りである。ただし、それはその結果「だけ」ならばという条件がつく。
フランス生まれのフランス語を話す日本人と、はじめてフランス語を学んでフランス語を話せるようになった日本人とが、急な仕事でドイツに転勤したらどうなるのか。おそらくは努力してフランス語を学んだその日本人は努力してドイツ語を学ぶだろうが、もう一人のフランス生まれの日本人は分からない。すぐにドイツ語を話すようになるかも知れないし、いつまで経っても学ばないかも知れない。だから、成果だけで決めたメンバーの仕事の中長期計画はあてにならない。
語学は仕事ではない。道具だ。語学ができてもそれはキーボードが使えますというのと変わらない。ブラインドタイプが出来ますといくら言っても、人差し指だけでキーボードを打つ人と比較されるのは、そのキーボードで打った中身だ。当然である。話せるという事は、雑談出来るというのとさして違わない。そうなると、海外で仕事をするという事は、あるいは日本で世界のどこかの誰かと仕事をするという事は、言語によらずきちんとアウトプットを出すことであり、仕事と語学の両方の努力が必要だという事でもある。そして努力して結果を出したという事は、次の機会にも結果を出せる可能性があるという事だ。
じゃあ、やっぱり成果よりプロセスなの?それとも結果?という疑問が湧いたら、それは日本固有の成果主義に絡め取られた証拠かも知れない。仕事の成果をどう評価するかはISOで定義されている。ヨーロッパの会社で仕事をしていれば、当たり前の話だと言っても良い。
仕事は全体の目標とその目標達成のための計画があって、個々人にはその計画に対する役割が割り当てられている。その仕事の中身を書いた文章をJob descriptionという。その役割の中で、個別の目標を達成するのが個人の成果となる。
「Aという商品を売って1日平均1000ユーロ売り上げる。」
という目標があれば、1000ユーロ売って初めてプラスマイナス・ゼロとなる。「すごく大変だったけど、頑張って目標の1000ユーロを達成しました」
と報告しても、きっと上司は計画通りになったと考えるだけだ。頑張ったかどうかは関係ない。
「頑張って1100ユーロになりました」
と報告したら、上司は間違いなく褒めてくれる。もしかしたら、ボーナスを追加してくれるかも知れない。でも、こう考えるかも知れない。100増えたのはよいが、予定数を超えたなら原材料の計画を変えないとまずいかもしれない。目標以上に頑張ってくれたのは素晴らしいが、超えて欲しかったわけではないと。だから、目標の意味を理解する事は極めて重要だ。上司に聞いたらこんな事を言う。
「Aを1000ユーロ売りたいが、原材料の問題があるので、Bの方で1000を達成できたら本当はもっと嬉しい。ただ、過去の状況からすると難しいだろう。」
チャレンジングな目標だとわかっていても、それを達成した時の評価は高い。だから成果主義であっても、チャレンジングな目標か通常の目標かで評価は全然違う。
こうした仕組みは、海外で仕事をしていると当たり前のようにそこにある。理不尽に見える日本社会の仕組みは、案外、お気楽なのかも知れない。
さて、フランス人ってそんなに頑張って仕事するの?と問われれば、仕事をしない。それは日本だって同じだ。サボって上手く渡り歩く連中も多い。何も変わりはしない。だって人間なのだ。楽できればその方が良い。正しく言えば、メリハリがはっきりしているように見える。仕事が終わればとっとと帰るし、忙しくない時はなかなか出社しない。バカンスは3週間もとって、その間はお店も閉まる。それどころか、医者ですらずっとお休みだ。でも、成果達成に必要なら深夜だって仕事をする。公的な休みは日本より1週間も少ないから、ずっと休みもない。この制度を説明していたら、長くなるからこれ以上はやめておくが、メリハリがあるのだ。
コロナでテレワークになった時が面白かった。政府機関も民間も、労働生産性や行動様式の変化などを真面目に調査した。ある調査によれば、テレワークになって生産性が上がったのは研究開発部門だったそうだ。みんな自宅にいるから余計な打ち合わせが減って集中力が増したのかと思ったら、通勤時間がなくなった分だけ働いたという事らしい。とは言え、実はちょっと話が深い。自宅にいるから家族の対応がやり易くなったというのだ。今まで夫婦でやりくりしていた子供の送迎などの自由度が増して、仕事に集中しやすくなったから、自然と生産性が上がったという分析もあった。
一方で、顧客対応の多い銀行業務などは生産性が低下した典型だったという。理由は簡単で、顧客がいないから余裕ができた。顧客対応以外の業務はその余裕でこなせるから、近所同士でおしゃべりをして過ごしたりして時間を過ごしたといった事だそうだ。ある調査によれば仕事したふりしてゲームしたりお茶を飲んだり。夫婦で家にいるから出生率も高まったという分析すらあった。確かに単調に下落し続けていた出生率は、2020年には例外的に上がっている。ただ、ロックダウンは2020年の4月だから、ちょっと早すぎる。きっと別な理由だろう。
ところで、コロナウイルスをコロナと言い続けているのは日本くらいなものである。WHOの推奨で各国ともCOVID-19と呼ぶようになった。フランス語ならコヴィッドディズヌフである。さらにいうと、テレワークはフランス語でテレトラバーユ。「ああ、とらばーゆね」と言うのはそこそこの年齢の方である。