
時々、日本の電車はうるさいという記事を見かける。モーター音がうるさいとか、おしゃべりがうるさいというのではなく、繰り返される車内放送や発車メロディーのことである。
個人的には常々不愉快だと感じているのでぜひ減らしていただきたいのだが、そんな声が多少あったとしても色々事情もあるようで、なかなか静かにはなるものでもない。車内放送の少ない欧州の人が日本の電車に乗ると驚くという話は大袈裟ではなく、どうしてこうもやかましいのかと話題にもなる。それでもだからと言って困るということでもなさそうだから、我慢できる範囲ということなのかもしれない。
車内放送などの音の是非については、ここではひとまず議論を置いておこう。発車ベルがわりの美しくもない音楽を毎日聞かされるのも、掴まりようのない吊り革に掴まれという案内も、程度問題といえばその通りであり、裏事情については山ほど記事があるからここで議論する理由もない。

同様に、日本は貼り紙だらけという点についてもたくさんの記事がある。あまりに多いので見ないようにしているが、それでも目には入ってくるので視覚的にうるさいことには違いない。ある研究によれば、貼り紙が増えてもほとんど役に立たないという話もあるし、貼り紙は責任逃れという説も誤解だそうだし、じゃあ何のために貼り紙があるのかという素朴な疑問が湧いてくる。貼り紙の是非についても、ここではひとまず議論を置いておく。貼り紙肯定派の方のために一つだけ個人的な印象を書いておくと、例えばフランスには貼り紙が少ないからといって問題もなさそうだし、コロナ期間中に2年ほど日本を離れていて日本に戻ってみると、細かな注意書きがやたらと増えたような気がしている。窓の隙間は3cmとか、そんな類である。

不思議だなと思うのは、誰もが安らいだり、子供たちと遊んだり、時に季節を感じたりするような公園のような場所に、それを妨げるような貼り紙がたくさんあることである。ここにアップした写真はなるべく掲示者などをぼかすように直接映らないアングルなどで撮っているのでわかりにくいかもしれないが、実際にははるかにたくさんの貼り紙があって、そこには「XXX管理事務所」のような名前も記載されている場合が多い。美しいつつじも、すっかり緑になった桜の木も、都会の片隅の畑も、目を背けるしかない。きっと気にならない人も多いのだろう。
でも、ひとつだけ書かせて欲しいのである。この手の貼り紙に「視覚的に」不愉快さを感じるのである。内容ではない。ごちゃごちゃとした貼り紙そのものである。

視覚的にうるさい、という感覚、すごくよくわかります。
一時帰国するたびに、道を歩いていてマイルドな不快感というか疲れがたまることにも気づきます。日本語で目についた瞬時にに情報が理解できてしまうというのもあるのでしょうね。アルファベットならデザインとして把握する、で終わることも多いです。
あと、公共の張り紙や看板の書体やデザインが、日本ではなぜか80年代くらいから進歩していないような気がします。英語で言うタッキー(tacky)なものばかりで、それらが色褪せたりするととてもみっともなくだらしなく見えるんですよねぇ。
余談ですが、私の住む街の市バスも、5年ほど前から「次の停留所」のアナウンスが簡単に入るようになったんですよ。アクセシビリティの条例が厳しくなってきているのも理由です。
バスや列車の最低限のアナウンスはフランスもちゃんとやってますね。音楽が流れて、次はどこって言うだけですが。
たぶん日本がうるさく感じるのはその後です。「どなた様もお忘れ物のないようお支度ください。」「お足元に注意してお降りください。」は言わなくても良さそうです。
視覚的なほうはもっと根が深そうです。ありとあらゆる場所に貼紙している感じは、電線地中化の問題に似ています。汚らしいとかうるさいとか感じる人は少なくなさそうですが、変えるだけのモチベーションにつながらない。
でも文化がなんであれ、考え方の違いがあろうが、単純に、美しい公園の花壇などにたくさんの犬のフンの始末の警告を貼らないで欲しいのです。