
人の習慣には慣性力が働くものだと思うようになった。
これまでずっとそうしてきたから止められないという事もあれば、止めたいなんて考えた事もないという事もあるだろう。とかく人は習慣をやめないものだ。やめないから習慣というのだなんて考えたら身も蓋もない。多くの習慣には止めるきっかけなんていくらでもあったはずなのだ。
人の想像力なんて高が知れているから、自分が経験した事しか見えないという人としての限界も習慣の慣性力を後押しする。ひょっとしたら、人間もAIもさして違いはしないのかも知れない。AIに習慣などありはしないが、たくさんのデータという経験則から答えを出しているAIは、実際は何も生み出しはしない。人の経験だって同じこと。発明だって経験の中から勝手にいつもと違う例外を作り出している程度であって、AIにも例外を作り出すことができたら人と変わりはしない。
きっと状況が変わっても続く習慣は、習慣の本質的な性質なのであって、ある日いつのまにかその慣性力がなくなった時、それを思い出と言うようになるに違いない。
iPhone以前は誰もが「ソフトウェア・キーボードなんて使えない」とあれだけ言ってたはずではないか。押した気がしないガラスの板はハードキーの代わりにならないと。そう言っていたのはたった15年前の事なのだ。それなのに、今では誰もがキータッチの良さよりもスクリーンのガラスについた脂の方を気にしている。「あー、思い出した。Blackberryだよ。」とか「いつもテンキーを連打してたよね。」なんて思い出は、慣性力が尽きたところにあるのだ。
少し前に紙のグラビア雑誌をピンチアウトする赤ちゃんの動画が話題になった。赤ちゃんには習慣の慣性力が働いているわけではなく、デジタルネイティブの典型として、単に拡大はピンチアウトするものだと学習しているだけのことだ。
ところが先日、スクリーン操作に慣性力が働いているパターンを発見した。その人はおそらく60代の男性で、スマートフォンの操作に苦労しているような風ではなく、むしろSNSなどを使って新しい情報を得ているようなごく普通のサラリーマンのようであった。周囲のサラリーマンと何ひとつ違うわけでもなく、あえて言うならノータイの開襟シャツに多少野暮ったいブルゾンを羽織っているあたりが、どこか田舎風という程度だった。花粉症なのかウイルス対策なのか、しっかりとマスクをして、熱心にスマホを操作している。まったく普通の「おじさん」だった。ただ1点を除いては。
その男性は、スクリーン操作をするたびに指を舐めるのだ。マスクを顎にずらし、指を舐めてスクリーンをめくる。そして再びマスクをかける。その一連の動作は素早く流れるようで、その人の手にもしスマホではなく紙の手帳や書籍があったなら、汚いなといった感想はあっても気にはしなかっただろう。だが、手にはスマホがあったのだ。きっと家で新聞を読む時も、仕事で紙の伝票を繰る時も、指を舐める癖があるに違いない。家族や同僚から止めるように言われていても、その習慣はやめられないのだ。だから慣性力はスマホであっても働いている。人間とはなんと愛らしい生き物なのか。
そんなわけで、習慣とも慣性力とも無関係な写真であるが、無関係だろうがいい加減なボツネタだろうが慣性力が働いているので構わずポストする。弱々しい光で羽を乾かす鵜は、はて、何を考えているのか。