Books, Photo

A Book: 写真がもっと好きになる。

This article was written only in Japanese.

ファインダーを覗き込むと案外その風景はつまらない。何となく感じた空間の広がりも、湿った青い空気も、澄んだ窓の向こうの光も、どこか平板な映像となって現れる。ただ、ピントの合っている部分とそれ以外のぼやっとした部分が入り混じっていることで、ようやく頭が空間を理解し何かに納得する。そんなものである。人の目は、見ようとするものすべてにピントを合わせ、見たくないものを視界の遠くに追い遣ろうとするものなのだ。それでもシャッターを切れば、フォーカスを合わせようなどと思わなかった部分までが、時に鷹揚に姿をあらわす。たとえ見たくなかったものであれ容赦ない。

だからレンズを何かに向ける時、ファインダーの隅々まで覗き込み、距離を見計らって絞りを変える。見たいものをしっかりと捉え、余計なものを消し去るために。隅々まで美しい風景ならば絞り込んで全てを写し撮っても良い。時には望遠レンズを使って空間を刈り取ることもあるだろう。遠くのものも近くのものも同じ矩形に封じ込め、見たいものが重なり合ってそこにあるように。

201704-414そうやって考えながら撮った写真を眺めていると、ふと気付くことがある。違っているようでいつも同じ矩形を切り取っていると。違うものにレンズを向けて違う光の中でシャターを押し、数年前と寸分違わぬ写真が残る。良く見れば違っている部分もないではないが、薔薇か葡萄か程度の違いでしかない。そこでようやく思い出すのは、撮りたいものを撮りなさいという誰が言ったか分からないひとことだ。けだし名言。なるほど時々iPhoneのほうがいい写真が撮れるのは、そういうことだ。撮りたいときにいつもの一眼レフがないから仕方なかったiPhoneが、予想外の写真を残す。

「ほぼ日」の連載が元だそうだ。残念ながらその連載を知らないが確かにウェブ風の体裁ではある。とまれ、その内容は写真の世界で迷子になりかけのアマチュア・フォトグラファーにはなかなか参考になる。「基礎的な技術ならもう分かっている。でも、問題はそんなことではない。教科書には書いていない何かが足りない。」そう思いながら読めば案外得るものも多いだろう。技術が分からなくても良い。技術の話はほとんどない。ただ写真に興味があれば手に取る価値はある。
ひとつだけ困った事がある。この手の本の書評にはいい加減な写真は使いにくいのだ。

最近読んだ本

写真がもっと好きになる。(SBクリエイティブ)
菅原 一剛 著

Books

A Book: 優雅なハリネズミ

201701-411This article was written only in Japanese.

日常のように淡々と時が過ぎ、日常のように終わりが曖昧なまま過去となる。そうやって心のどこかに小さなトゲが残される。容赦ない自然の惨禍も玄関先の蔓薔薇も同じように傷痕を残しはするが、突きささったトゲはいつまでも小さな痛みを与え続け、誰ひとりその終わりに気づくことはない。日常のみが、ただ終わりを告げる。それが日々を過ごすということである。
通勤電車のつり革に必死でしがみつき、その日のちっぽけな出来事を思い返しながら、子供時代に過ごした遠い田舎の小さな町の嫌な出来事が通り過ぎるのを眺める事も、朝の出がけに郵便受けを覗き込み、その日のくだらない予定を反芻しつつ、ふと見つけた差出人に忘れていた記憶を呼び起こす事も、全てが区切りのはっきりしない時間の中に刻まれた昨日の断片でしかない。オレンジ色に反射する幸せに満ちたレンガの壁も、忘れてしまいたいくすんだ会議室の壁も、同じ空間を共有している。それが過ぎて行く日々である。
そうした変わることなど無い日常は、唐突にねじ曲がる。不意の出会いも思いがけない偶然も、ある日突然日常の一部となって踏み込んでくる。だから誰もが後ろめたい何かを隠している。自分の息をするのに必要な半径の中に誰かが不意に入って来ないように。

最初に粗削りな印象を強く感じたことだけは、あらかじめ告白しておかなければならない。決してネガティヴな感情を抱いた訳ではないが、だからと言って、しばらくは洗練された作品といったポジティヴな印象には程遠いものでだった。それが、ページを繰って新たな段落に出会うたび、いつの間にか粗削りなことが必然であるように思えてくる。そうした不思議な作品だ。幾重にも折りたたまれた異質な層が、後半になって急に滑り出す。慌てて前のページを見返しても、どこかに適切なページが見つかる訳でもない。読み終えてからようやくもやもやとした影が見えたりする。売れるわけだ。

優雅なハリネズミ
ミュリエル・バルベリ (Muriel Barbery) 著、 河村 真紀子 訳

 

Books

A Book: どくとるマンボウ航海記

201612-101This article was written only in Japanese.

漢字の国に住んでいるのだなぁと感じ入ることしきりである。手紙を書こうとして漢字が思い出せなかった上に、辞書を引いたらその説明に使われていた漢字が読めなかった、などという情けない話ではない。今時、キーボードを叩けば漢字は立派に変換されるし、そもそもそんな情けない話を自慢げにブログには書かないものである。漢字の国だと実感したのは、電車の中の広告を見ての話だ。曰く、
「やめましょう、歩きスマフォ」
あぁ、なるほど、電車も事故やトラブルが多くて、広告でも使って啓蒙する必要があるのだな。というところまではいつもの話である。ただ、その横に書いてあったのは
「不要在走路时使用手机」
という漢字の羅列。中国語に違いない。中国語には心得がないから、読むにははるか昔に習った漢文の知識を総動員するしかないが、この程度なら雰囲気だけでも意味が分かる。必要なのは、「时」という漢字が簡体字で「時」だろうという想像力と「手机」が携帯電話だという雑学だけだ。何々、携帯電話を使っている時は…となんとなく読めてしまう。英語が分かるとフランス語がわかるかといえばそんなことはないが、時々それらしく読めてしまったような気がするのと同じだ。ただ、困った事にフランス語と英語が共通しているのは概念的な単語が多いようで、その上意味も全然違うから、分かった気がしても人に言わない方が良い。“comment?” に対して「特にコメントはない」なんて答えて、バカにしていると思われても責任は負えない。「どうやって?」とか「なんだって?」とか聞かれたのであって、誰もあなたにコメントなど求めてはいない。

さて、歩きスマホの啓蒙広告には韓国語と英語も記載されている。残念ながら韓国語は紛れもなく韓国語だったと感じているが、同じことが書いてあったかどうかまでは甚だ自信がない。僅かでも知識があれば良いのだが、かけらもないというのが正直なところ。棒と丸がたくさん書いてあったから韓国語なのだと言うだけである。ありがたい事に、分かりやすい現代語が4ヶ国語で書かれているから想像できたに過ぎない。ひょっとすると数千年後には新たなロゼッタストーンとして博物館に恭しく飾られないとも限らないが、恐らくは紙切れすら残らないだろう。ちなみに英語は
“Stop: texting while walking”
ロゼッタストーンであったとしたらしばらく誤解が続きそうである。

何をつまらない事で長々と書いているのかと問わないでいただきたい。新たな国、新たな環境に身を投じるという時、この手の薀蓄は案外大切である。いや、ここで書いた薀蓄が重要なのではない。薀蓄を楽しく語る姿勢が重要なのだと信じている。もちろん困った時にその姿勢が必要というのはある。ただそれ以上に、薀蓄でも語ってなければ楽しくやっていけないではないかと、そう思うのだ。

さて、どくとるマンボウシリーズである。ここに常識と定義することが好ましいものはあまりない。そもそも世界に出たいと思ったら、普通、船医になろうとは思わない。たとえ海外に出るのが難しい時代であったとしても、他の方法を探しそうなものである。ところがそうでもないらしい。カナダで観光ガイドをしているというある人は国を農業で出たそうだ。考えてみれば、船医は看なければならない人口は少ない代わりに全部1人で対応する必要がある。暇な時間もあれば緊張感たっぷりの時間もあるとんでもない仕事に違いない。それ相応のユーモアのセンスがなければやってられないのだろうなと想像する。北杜夫、今読んでも充分「新刊書」である。

最近読んだ本

どくとるマンボウ航海記 (新潮文庫)
どくとるマンボウ昆虫記 (新潮文庫)
北 杜夫 著

Bonne journée, Books, Cross Cultural

映画と読書

201605-311

どんなに息苦しい場面であっても、どんなに退屈な日常であっても、映画の中の時間は製作者が意図するように進んでいく。ちょっと辛いと感じようが欠伸がでようが、見る側の介在をきっぱりと拒絶し、ささやかな抵抗と言えば、せっかく買ったチケットをあきらめ自ら席を立つこと程度しかない。だからなのか、映画館では眠っている輩も少なくない。いったい、激しく音が鳴りわたるアクション映画を見ながらゆっくり休むことが出来るものなのか、私にはとんと分からないが、そうやって居眠りしていても時は流れて行く。長距離便の機内で疲れきった体の中をコーヒーで洗いながら見る映画となれば、時に悲劇が訪れる。ゆったりと時が流れる映画の途中で意識を失い、目覚めた時には急展開の後半に、事の背景も分からないまま結論だけが提示されたりする。

そんな映画へのアンチテーゼというわけではないだろうが、時の流れを基準に映像をつなぎ合わせた「The Clock」は秀逸である。12時の時を告げる緊張感とランチタイムの安堵感は、まさに「時」そのものを見せてくれる。ともあれ、楽しみながら見ようが居眠りしようが、時には自宅のDVDを停止して食事をしようが、それが断片的であれ、映画は製作者の意図のままに時が流れるものである。
しかるに、本を開きその世界に入っていこうとする時、それは強い意志を持って時間を切り開かなければならない瞬間ともなり得る。辛ければ本を閉じれば良い。退屈ならコーヒーを沸かしのんびりしたって良い。紙切れの向こうの主人公など気にしなければ良いのだ。それでは困ると作家は思うのかもしれないが、知ったことではない。読者が好きなようにして良いのが本なのである。だが、同時にそれは、読者が強い意志を持って読み進めなければならない瞬間もあることを示している。先に進みたくなければ本を閉じるだけで良いのに、意志を持って読み続けなければその先の地平線が見えないことだってある。辛かろうが退屈だろうが、地平線が見えるその場所には自らの意志で読み進めなければならない。そうやって努力して読み進めたから得られる感慨もまた、読書の一部である。