
今とはさっきまでの時間とこれからの時間の間に挟まれた隙間時間でもなければ、昨日と明日の間を過ごす今日から切り出された移り行く時間でもない。それは次の時を過ごすために過去となった時を振り返って準備している動き。止まらずに動いているから今という瞬間は捉えることも叶わないたった0の時間。その今の間隙に落ち込んでいく自分の居場所はどこにあるのか。そんな事を考えながら満員電車の吊り革を頼る。都会は今が多すぎる。
capturing in prose
今とはさっきまでの時間とこれからの時間の間に挟まれた隙間時間でもなければ、昨日と明日の間を過ごす今日から切り出された移り行く時間でもない。それは次の時を過ごすために過去となった時を振り返って準備している動き。止まらずに動いているから今という瞬間は捉えることも叶わないたった0の時間。その今の間隙に落ち込んでいく自分の居場所はどこにあるのか。そんな事を考えながら満員電車の吊り革を頼る。都会は今が多すぎる。
クロワッサンは焼きたてでなければならない。パン屋で茶色の紙で無造作に包まれたそれを受け取った瞬間から、包み紙を通して感じるほのかな温かさとふわりとした触感に、早く喰らい付かなければならないという罪悪感のようなものすら感じ始める。思わずゴソゴソと包みを開き、あたりをうかがいながら大きな口を開けて嚙みつけば、口中に広がるサクサクとした甘みとバターの香りの組み合わせが幸せを呼び起こす。脂っぽいパン生地のかけらが口の周りに着こうが、周りに散らばろうが、味わいに比べれば些細なことである。朝7:30の開店と同時にクロワッサンを買うということは、そういうことだろう。フランス語でクロワッサンはパンではないとか、ナポレオンがどうしたとか、もはやどうでも良い。半日経っても美味しいクロワッサンというのもあるだろうが、それでも焼きたてでなければならないのだ。
一方、ベーグルは焼きたてを楽しむことが本筋ではない。半分にスライスして、たっぷりのクリームチーズとハムを挿み、時にはレタスなどの野菜類も加えて、美味しく健康的にいただくべきものである。時にパンが冷たく冷えきっていても、それ自体は重大な問題ではない。ビタミンすら感じながら、もっちりとした歯応えとフレッシュな空気感こそ似つかわしい。
いきなりパンの話で始めたのには理由がある。個人的な感覚だと言われればその通りだが、いつもの街で少しばかり妙な感覚をパン屋の前で感じたからである。
先日、混雑した電車から降りてようやく一息ついたところで、その妙なものに気がついた。吊り革を掴む腕が揺れるたびに関節に感じる湿気にうんざりしていた後だけに、いっそうすっきりしない感覚が増したのかもしれない。駅のパン屋に並ぶ朝の美味しそうなパンとパンの間に、奇妙なポップが置かれていた。
「クロワッサン・ベーグル」
対極にありそうなこのふたつのパンが、何故ひとつになったというのか。しばらくは、何が書いてあるのか理解していない自分を疑わざるをえなかった。そして、思い至ったのだ。つまりは、「餅茶漬け」とか「ブレッド・アンド・ライス」とか、兎も角も似たようなものを強引に組み合わせたのだろうと。確かに、随分と前のことだが「おにぎりパン」なるものが売っていて、血気盛んなチャレンジ精神でそれを買ってみたことがある。それはそれで面白いし、不味いというわけでもなかったが、正直、面白さとカロリーがその主たる中身だったように記憶している。誰が考えたのか知らないが、できれば美味しいものはそのまま頂きたいものである。
ところで実は、もうひとつ奇妙なものがある。なんと「ミートドリンク」である。とはいえ、こちらは見間違い。自分が勝手に間違えただけなのだが、朝から多少胃に違和感を覚えたことだけは告白しておきたい。
ところで、冒頭の写真は本題とは全く関係ない。本文でいつもと違った写真を使ったので、少しばかり悩んだような写真を持ってきてみただけである。
どんなに息苦しい場面であっても、どんなに退屈な日常であっても、映画の中の時間は製作者が意図するように進んでいく。ちょっと辛いと感じようが欠伸がでようが、見る側の介在をきっぱりと拒絶し、ささやかな抵抗と言えば、せっかく買ったチケットをあきらめ自ら席を立つこと程度しかない。だからなのか、映画館では眠っている輩も少なくない。いったい、激しく音が鳴りわたるアクション映画を見ながらゆっくり休むことが出来るものなのか、私にはとんと分からないが、そうやって居眠りしていても時は流れて行く。長距離便の機内で疲れきった体の中をコーヒーで洗いながら見る映画となれば、時に悲劇が訪れる。ゆったりと時が流れる映画の途中で意識を失い、目覚めた時には急展開の後半に、事の背景も分からないまま結論だけが提示されたりする。
そんな映画へのアンチテーゼというわけではないだろうが、時の流れを基準に映像をつなぎ合わせた「The Clock」は秀逸である。12時の時を告げる緊張感とランチタイムの安堵感は、まさに「時」そのものを見せてくれる。ともあれ、楽しみながら見ようが居眠りしようが、時には自宅のDVDを停止して食事をしようが、それが断片的であれ、映画は製作者の意図のままに時が流れるものである。
しかるに、本を開きその世界に入っていこうとする時、それは強い意志を持って時間を切り開かなければならない瞬間ともなり得る。辛ければ本を閉じれば良い。退屈ならコーヒーを沸かしのんびりしたって良い。紙切れの向こうの主人公など気にしなければ良いのだ。それでは困ると作家は思うのかもしれないが、知ったことではない。読者が好きなようにして良いのが本なのである。だが、同時にそれは、読者が強い意志を持って読み進めなければならない瞬間もあることを示している。先に進みたくなければ本を閉じるだけで良いのに、意志を持って読み続けなければその先の地平線が見えないことだってある。辛かろうが退屈だろうが、地平線が見えるその場所には自らの意志で読み進めなければならない。そうやって努力して読み進めたから得られる感慨もまた、読書の一部である。