
おそらくは1993年の夏の頃だった。なんでもやってみたいといろいろ手を出してどれもこれも中途半端だったくせに好奇心いっぱいで、表面的な事すら分かってもいないのに知ったかぶりの若造だった。人と同じでは気が済まず、誰もが履いていたダメージドジーンズなんて恥ずかしいとワンウォッシュ・デニムを履いて庭園美術館の前庭に腰を下ろして文庫本を開き、蓄えなど無くても夏の週末は山中湖のほとりでジェットスキーやバーベキューをして過ごし、家で過ごす時の音楽はいつもラテンかジャズかクラシックだった。そのくせかけっぱなしのラジオはJ-waveでルーシーケントのコールを真似しながら聞く曲は洋楽ばかりだったから全米チャートのロックの方が詳しかった。
湖の浜辺に置いたテーブルにアマチュア無線機を放り投げ、サマーベッドに水着で横になってガソリンの匂いのする青空を見上げながら、遠く渋滞する周遊道路のエンジン音を聞いては「もっとゆっくりすればいいのに」なんて言ってみる若造は、粋がっているようでも案外そのための努力は惜しまないところもあった。仕事で帰りが深夜になって平日の睡眠時間が不足していても週末の朝は5時前には起きて山中湖に向かい、静まりかえった湖畔で黙々とジェットスキーの準備をした。まだまだインターネットが普及しきれていない時期だったから、仕事柄ネットにアクセスする事はできても実際には肝心な情報もなく、好きなラテン系の曲の情報を得るために、移動中の隙間時間を使って雑誌を読んでみたりJ-waveを聴いたりもしていた。もちろん移動中の隙間時間に読む本もどんどん山積みになっていたから、時に厚みが5cmもありそうな「ゲーデル、エッシャー、バッハ」をバックパックに放り込み、時にリチャードバックのペーパーバックをポケットに無理やり突っ込んでいるような状況だった。本の重みや英語で書かれている事の方が価値が高かったのだ。そんな調子だからいつも時間が足りなかった。
それは、おそらくは1993年の夏の頃だった。そうやって粋がって日々を過ごしているとJ-waveから案内が聞こえてきたのだ。おそらくは「カリビアン・カーニバル」という名前のコンサートだったと思う。今では当たり前になった野外ライブである。場所は日比谷野音。出演者はオルケスタ・デル・ソルやエル・グラン・コンボ、そして沖縄のディアマンテス。ディアマンテスは記憶が正しければペルー出身者のバンドだったからカリビアンと名うつには少々無理があったように思うが、大御所からフレッシュな新人までラテンを楽しめるライブとなっていた。きっと今だったらプラチナチケットの類だったろう。3000人も入れない野外音楽堂だ。しかも東京のど真ん中。でも、当時は野外フェスはそれほど当たり前ではなかったのだ。チケットは案外簡単に取れた。
実はこのラテンの野外フェスは主催者が違ったりしながら何年か続いたのだが、ある時ライブが終わった後でポツンと座席に座ったままでいると、人が近づいてきた事があった。会場片付けのバイトのお兄ちゃん風だったので「そろそろ会場から出て下さい」とか言われるかと思ったら、在日ペルー人会に来ませんかというお誘いだった。きっと日系ペルー人だと思われたのだ。スペイン語は分からなかったが、ひとことふたこと会話したのは日本語だった。既に記憶は曖昧になってしまっているが、それくらいローカルでアットホームなフェスだったのかもしれない。後になってペルー人会に行ってみればよかったなんて思ったのだが、あとの祭。その時は何だか気後れしてそのままにしてしまったのだった。
そのおそらくは1993年の夏のカリビアンカーニバルは、記憶違いでなければ台風で雨のライブだった。東京直撃コースだから電車も止まるかもしれないなどと報道されていて、雨の中を会場に向かいながらも、ほんとうにやるのだろうかと他人事のようにぼんやり考えていた。台風でも会場に向かったのだから、ほんとうはきっと強い台風というわけでもなかったのだろう。でも、記憶の中では嵐の中のライブだった。オルケスタ・デル・ソルは名曲「晴れた日も来るさ」を大雨の中で演奏し続け、会場は大盛り上がりだった。ビニール合羽を頭から被り、天を指差しながら全員で歌う「晴れた日も来るさ」。記憶も曖昧だが、パーカッションのペッカーか誰かが「台風はもう埼玉まで抜けたらしいぞ!」と叫び、会場が「yeah」と呼応するから、それはもうサルサというよりロックコンサートのようだった。ライブが終わってみれば雨も小降りになって、誰もが台風の中のライブに満足していた。とはいえ下着までずぶ濡れで、夕食を食べながら体温で乾かすのは若かったから出来た事なのだろう。
その台風の中のライブだったか確信が持てないが、期待以上に良かったのが沖縄のディアマンテスだった。元気いっぱいのエネルギーにあふれたオープニングアクトで、その熱さが全てを引っ張っていくようだった。
それから何もかもを覚えているには長すぎ、全てを忘れるには短すぎる30年が過ぎていった2023年の初夏、変に粋がって見せなくても少しばかり贅沢な時間を過ごせるようになった自分は、石垣島の海辺のテーブルで食事をしながら若かった頃を思い出そうとしていた。もしかしたら過去などどうでも良かったのかもしれないが、北回帰線がすぐそこにあるその島は、沖縄のラテンを聞くにはうってつけの場所だったし、やはり若い頃に時間を忘れて楽しんだカリブ海に浮かぶバハマ諸島の緯度とも同じくらいの場所でもあった。何でも出来そうで何でも怖かった30年前の自分は、バハマの塩辛いコーヒーに酔い、沖縄のラティーナのリズムに揺れていた。そしてその30年後の自分は、石垣島でバーベキューのスモーキーな香りを楽しみながら、目の前で激しく体を動かすダンサーのエネルギーを感じていた。そのサルサ・ダンサーのPatiさんは、もしかしたら30年前のディアマンテスのパティなのかも知れなかった。
結局それを確かめることはしなかった。在日ペルー人会をを訪ねようとしなかったように、後になって一言聞いてみればよかったと思い直したのだった。
