Bonne journée, Books, Cross Cultural

映画と読書

201605-311

どんなに息苦しい場面であっても、どんなに退屈な日常であっても、映画の中の時間は製作者が意図するように進んでいく。ちょっと辛いと感じようが欠伸がでようが、見る側の介在をきっぱりと拒絶し、ささやかな抵抗と言えば、せっかく買ったチケットをあきらめ自ら席を立つこと程度しかない。だからなのか、映画館では眠っている輩も少なくない。いったい、激しく音が鳴りわたるアクション映画を見ながらゆっくり休むことが出来るものなのか、私にはとんと分からないが、そうやって居眠りしていても時は流れて行く。長距離便の機内で疲れきった体の中をコーヒーで洗いながら見る映画となれば、時に悲劇が訪れる。ゆったりと時が流れる映画の途中で意識を失い、目覚めた時には急展開の後半に、事の背景も分からないまま結論だけが提示されたりする。

そんな映画へのアンチテーゼというわけではないだろうが、時の流れを基準に映像をつなぎ合わせた「The Clock」は秀逸である。12時の時を告げる緊張感とランチタイムの安堵感は、まさに「時」そのものを見せてくれる。ともあれ、楽しみながら見ようが居眠りしようが、時には自宅のDVDを停止して食事をしようが、それが断片的であれ、映画は製作者の意図のままに時が流れるものである。
しかるに、本を開きその世界に入っていこうとする時、それは強い意志を持って時間を切り開かなければならない瞬間ともなり得る。辛ければ本を閉じれば良い。退屈ならコーヒーを沸かしのんびりしたって良い。紙切れの向こうの主人公など気にしなければ良いのだ。それでは困ると作家は思うのかもしれないが、知ったことではない。読者が好きなようにして良いのが本なのである。だが、同時にそれは、読者が強い意志を持って読み進めなければならない瞬間もあることを示している。先に進みたくなければ本を閉じるだけで良いのに、意志を持って読み続けなければその先の地平線が見えないことだってある。辛かろうが退屈だろうが、地平線が見えるその場所には自らの意志で読み進めなければならない。そうやって努力して読み進めたから得られる感慨もまた、読書の一部である。